2013年1月12日(土)マタイ6章 隠れたことを見ておられる父


「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。…隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6:1,4)

 人の目は気にしても、神の目は気にしない。この御言葉はそのような生き方に反省を迫ります。

 他方、この御言葉は人の目を恐れての不安から、私たちを解放します。私たちを見ておられる主に思いを向け、「神に喜ばれることをしよう」と願って生きるなら、人の目を恐れることに由来する多くの不安は、消え去るからです。

 神はどのような眼差しで私たちを見ておられるのでしょう。主イエスは、神を「隠れたことを見ておられる父」と呼ばれました。「父」は、正確には「あなたの父」という言葉です。神は厳しい審査員としてではなく、私たちの父として、私たちの隠れた事柄まですべてを見ていてくださいます。

 人に理解してもらえない時、御父の眼は優しい眼です。すべてを知っていてくださいます。心に責められることがある時でさえ、御父の眼は優しい眼です。すべての罪を赦しつつ、善い業は残らず覚えて、天で報いてくださいます。この方の目の前を生きる喜びをわがものとしたいものです。