2012年12月11日(火)アモス7章 御言葉を受け入れる心


アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」(アモス7:14-15)

 アモスは破滅を宣言するだけの預言者ではなく、イスラエルのために神に執り成しもしていました。二つの審判、いなごと火による災害は回避されましたが、7〜9節に記されている下げ振り(垂直かどうかを調べる道具)の幻では、イスラエルの狂いと歪みが回復できないほどひどく、取り壊すしかないことが明白にされます。

 この狂いと歪みを代表しているのが祭司アマツヤです。神に仕える者でありながら、アモスに預言することを禁じます。そして、いい加減な預言で日銭を稼ぐことは自国でせよと言い放つのです。アマツヤの低俗さがよく分かります。

 アモスは、自分の生活は本来の職業で十分成り立っていると言い返し、預言は主からの召命であることを明確にしています。アマツヤは自分たちにとって都合の悪いメッセージを聞きたくもないし、語って欲しくもないのです。たとえそれが主の言葉であったとしても、です。驚くべきことです。厳しい言葉も、神からの警告として受け入れることこそ神の民の心であるはずです。