2012年7月29日(日)詩編137編 真実に神を賛美する喜び


バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。…
どうして歌うことができようか
主のための歌を、異教の地で。(詩編137:1,4)

 「どうして歌うことができようか…」との良心の叫びは、捕囚の地バビロンで受けている屈辱のなかで、真実に主を賛美することの大切さを証ししています。エルサレムでの礼拝を思いながら、まことの神を賛美する歌が、不信仰な人びとの興味と関心の的として、余興のようにあしらわれてよいだろうか、と。

 神の都エルサレムでの賛美こそ、「わたしの最大の喜び」(6節)であり、礼拝の歌そのものです。ですから、それに反して、まるで神などはいないかのように礼拝の歌があしらわれることは到底許されることではないのです。

 今、私たちは、主イエス・キリストにおいて、究極の賛美は、天上の神の都にあることを知っています。天の故郷を仰ぎつつ、私たちの心は、絶えず主を賛美します。「しずけき河のきしべを…」(讃美歌520番)と歌うとき、今日も、私たちの心は、この異教の地においても、ただ、天上の主イエスを仰ぎ見、最高の喜びを一つにするのです。