2012年6月21日(木)ローマ7章 律法は聖なるものなのに


律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。…わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。(ローマ7:12,19-20)

 アダムは初め、神との生きた関係(いのち)を正しく保っていました。しかし、「この木の実を取って食べるな」という神の言葉を破り、いのちを自ら損ないました。

 この神の言葉が「〜するな」という禁止命令形であるのは大切です。人は何かを禁止されるとき、かえってそれに関心を持ちます。それが高じると、「してみたい」という誘惑になります。神との生きた関係が壊れたまま生まれてきた私たちには、その傾向が一層強くあります。神が「するな」と言われることをしてみたいと思うだけでなく、「しろ」と命じられることはしたくないと思います。

 人は生まれつき、誰からも教えられなくてもある程度善悪の感覚(良心)を持っています。何か悪いことをしたとき、誰も見ていなくても心に痛みを感じます(良心の呵責)。神への後ろめたさの感覚ですが、なにぶんにもあいまいです。

 だからこそ、律法が必要です。律法そのものは聖であるのに、律法(神の言葉)を嫌うなかに、私たちの罪が明確にあらわれます。