2012年6月7日(木)ローマ1章 神を神とする


世界が造られたときから、目に見えない神の性質…は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。(ローマ1:20-21)

 「罪とは、神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは、神の律法にそむくことです」(ウ小教理問答14)。律法は、人格的な神の意思を言葉にしたものですから、次のように言い換えられます。つまり、罪とは神の人格を軽んじること、無視することです。

 しかしそうだとしても、神がご自分の人柄(人格の特徴)を人に示されないなら、軽んじると言っても尊重すると言っても意味をなさないでしょう。神はこの被造世界を創られたときから、目に見えるもの、目に見えないものを通して人に十分に自己紹介しておられます。しかし、私たちはそれを無視し、神を蔑ろにしています。

 神が人を、他の被造物とは違い意志あるものとして創られたとき、人は神に背く可能性も持ちました。その可能性は現実のものとなり、神との関係の破壊から、他の人との関係や自然界との関係の歪みが蔓延しました。

 キリスト教信仰とは、キリストを通して、人が元の立場に戻って、神を神として尊ぶことです。