2012年4月25日(水)エレミヤ14章 愛の懲らしめ


主はわたしに言われた。「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。」(エレミヤ14:11)

 エレミヤは、干ばつが自分たちの罪に対する神の裁きであると捉らえていました。そのために彼は、民を代表して「我々の罪が我々自身を告発しています」(7節)と自分たちの罪を告白し、主なる神に赦しを請います。しかし、このように罪を告白し、執り成しの祈りをささげているのはエレミヤ一人だけで、イスラエルの民は悔い改めようとしません。

 そこで神は、エレミヤに「この民のために祈り、幸いを求めてはならない」とまで言われます。それは神に反逆している南ユダが、バビロンに全面降伏し、捕囚の民となって70年を過ごさなくてはならない、ということです。その経験を通して、自分の罪深さを身に染みて思い知る以外に、このイスラエルの民の再生の道はないことを、神はご存じなのです。

 この神の思いを知ることができるのは幸いです。私たちからみれば懲らしめを受けているかのように思えても、そこには悔い改めに導こうとされる神の愛が溢れているのです。