2011年9月27日(火)イザヤ59章 救いは主から来る


主の手が短くて救えないのではない。
主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
むしろお前たちの悪が
神とお前たちとの間を隔て
お前たちの罪が神の御顔を隠させ
お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。(イザヤ59:1-2)

 「主はなぜ救ってくださらず、聞いてくださらないのか。」苦難の日のこの問いには、さまざまな答えがあることでしょう。

 今日の御言葉で預言者が直面しているのは、最悪のケースです。「自分たちの苦難は主の無力のせいだ」と民は嘆きますが、実際は彼らの罪のゆえでした(1、2節)。その罪を悔い改めて新しい出発をするほどの真実も彼らから失われ(13〜15節)、執り成す人もありません(16節)。

 救いの手がかりが全く見えないなかで、預言者は、ただお一人で救いを開始される主を指し示しました。主は執り成す人がいないのを驚き、自ら武装して救いの出陣をなさいます(16、17節)。罪を裁いて主への畏れをもたらし(18、19節)、罪を悔いるに至る神の民を贖ってくださいます(20節)。

 救いの手がかりが皆無のとき、主はお一人で働かれます。十字架は、その主のお働きの頂点です。どんなに深い泥沼の状態のときも、その主の十字架を見つめていきましょう。