2011年8月31日(水)イザヤ48章 救いの成就と神の主権


わたし自身のために、わたし自身のために
わたしは事を起こす。
わたしの栄光が汚されてよいであろうか。
わたしはそれをほかの者には与えない。(イザヤ48:11)

 イザヤ書48章は「聞け」という言葉で始まります。それは主の民の心が頑なで、神の言葉に耳を貸そうとしない民だからです。それにもかかわらず、神は御声を聞かせようとなさいます。そうでなければ、これから起こることをなしたのは他の神々だと、イスラエルの民が頑なな心で思い続けるからです。

 なぜこんなにも頑固で強情なイスラエルのために、神はなおも救いの御業を成し遂げようとされるのでしょうか。それは神ご自身の栄光のためです。神は罪を犯して堕落した人間を救おうと、主権をもって決意されました。神はご自身の決めたご計画を忠実に果たされるお方です。人間の頑なさによって計画をくじかれてしまうようなお方ではありません。

 神は、罪人の頑なな心と態度を忍耐し、ご自身の栄光のために救いの御業を完成させてくださいます。この驚くべき忍耐のゆえに、私たちの救いは確実なのです。神が御声を聞かせてくださるとき、頑なさを捨てて、聴き入りましょう。