2011年6月6日(月)イザヤ38章 人は何で生きるのか


主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。
わたしの霊も絶えず生かしてください。
わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。(イザヤ38:16)

 死ぬことは、生きとし生けるものすべての定めです。また、長生きをしたからといって、良いことばかりがあるわけではありません。そうであっても、病であれ何であれ、人生の道半ばに逝かねばならない無念は特別です。

 命を与えるのも取り去るのも、ただお一人の神の御業です。ヒゼキヤ王は、重くのしかかる病と、命が消え行くことが、自分に与えられた神の定めと知りながら、なおも神にすがります。「涙を流して大いに泣いた」(3節)とあります。16節は、このヒゼキヤの祈りの言葉です。生きたいという願望と、主が生かしてくださるという信仰が表されています。

 この祈りへの応答は、寿命が単に延びるだけではありませんでした。ヒゼキヤは、このように祈るなかで、神との交わりを求める、内なる人が強められています。問題は、自分の人生が生死を司るこの神に顧みられているかどうかということです。御言葉と祈りにおいて、主が近くにいてくだされば、人は生きるのです。