2011年2月3日(木)1テモテ1章 わたしが憐れみを受けたのは


わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(1テモテ1:16)

 パウロは「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」(13節)、「罪人の中で最たる者です」(15節)と言っています。彼が、憐れみを受け、罪を赦されたばかりでなく、「キリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となった」(1節)のは、「この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるため」でした。

 救われるはずのない者をも救う神の憐れみ。その驚くべき恵みを、パウロは、ここで証ししています。そればかりではなく、主イエスがそのパウロを、使徒として「忠実な者と見なして務めに就かせ」(12節)ました。

 私たちも、憐れみと救いを受けるはずのない者でした。罪とけがれの中に沈む私たちが、神さまの忍耐と憐れみを受けているのです。それは、日々私たちが出会う人びとのために、「手本」となり証人となるためです。私たちのような者を憐れみ用いてくださる神は、それらの人びとにも豊かに憐れみをお与えになることを伝えましょう。