2011年1月10日(月)イザヤ3章 神のぶどう畑に生きる


主は争うために構え
民を裁くために立たれる。
主は裁きに臨まれる
民の長老、支配者らに対して。
「お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし
貧しい者から奪って家を満たした。」(イザヤ3:13-14)

 神のぶどう畑は、食い尽くされている。これが神の告発です。ユダの家は、神のぶどう畑として、豊かな実りが約束されています。ところが、現実のユダとエルサレムは、指導者から民衆に至るまで、不信仰と腐敗に身を任せています。神の民が、その内部から崩壊しているのです。

 民は、指導者として立ってくれる人を求めています。しかし、期待されている人びとは「わたしにも手当てはできない」と匙を投げています(7節)。ユダとエルサレムの社会は、混乱と無秩序によって、自ら滅びへの道を突き進んでいるように見えます。

 けれども、神はご自分の「ぶどう畑」であるユダとエルサレムが、自らの罪によって自滅してしまうことをお許しになりません。人間の罪と混乱に、神が立ち向かわれます。神はぶどう畑の実りを期待しておられます。ぶどう畑の収穫。それが人生の争点であり焦点です。ユダだけではない、私たちすべてが、ぶどう畑の実りに参加するように招かれています。