2009年5月1日(金)1コリント11章 主の一つの体であることをわきまえる


主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。…
わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。(1コリント11:29-33)

 パウロは聖餐式でパンとブドウ酒をいただく心得として、「主の体のことをわきまえよ」、と勧めています。主の体のことをわきまえない聖餐の飲み食いは自分に裁きをもたらすと語られています。実に厳しい言葉です。

 この言葉は、この手紙でどういう意味で語られたのでしょうか。33節には、「互いに待ち合わせなさい」とあります。当時、聖餐式は食事の場でもありました。コリント教会では、聖餐を祝うはずの食卓で、富める者が自分勝手に自分の分を食べ、ある者は酔い、他方で貧しい者は空腹のまま、ということが起きていました。

 パウロの願いは、聖餐の食卓がキリストの体を建てる愛の交わりの場となることです。主と一つの体とされたことに感謝し、主の体とされていることをともどもに喜ぶことが、「主の体をわきまえる」ということです。

 宗教改革者は、著しく隣人愛に欠ける者を戒規にし、聖餐から閉め出しました。愛の実践と聖餐の交わりは、本来は結びついており、両者がキリストの体を建てるのです。