2009年3月19日(木)マタイ27章 悔い改めの涙の恵み


そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。(マタイ27:5)

 泣くということは、ある意味で負けを認めることです。ペトロは三度主イエスを否み、しかし赦してくださる主によって、その愛の深さを知りました。そしてその愛に応えられない自分を本気で悔しがり悲しんで、負けを認めて泣きました。

 ユダは自分の罪に気付きながらも、主イエスの前で泣けなかったのだと思います。主イエスに降参できませんでした。そして、失敗の落とし前を自分でつけるかのごとく、自ら首を吊るのです。武士の切腹と同じ原理がここにあるのかもしれません。同じような罪を犯しながらも、ユダとペトロでは、その結末は余りにも対照的です。

 主イエスの十字架に身を寄せる時、罪は完全に赦されます。どんな失敗も赦されます。ユダは罪の自覚に苦しみながらも、それが赦されるという事実を信じられないか、あるいは、あえて拒んだのではないでしょうか。

 主イエスは赦してくださっているのに、私たちには自分で自分を赦さないということがあります。主の前で泣けないというプライドは、悲劇です。主に降参できる者は幸せです。