2009年3月14日(土)マタイ26章 主イエスが背負われた罪の重さ


そして、彼らに言われた。
「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(マタイ26:38)

 ゲツセマネの祈りにおいて、主イエスは追い詰められた苦しみを深く経験しておられます。

 そして、この主イエスの苦しみが、私たちにとっての大きな慰めです。なぜなら、この苦悩する主イエスの姿は、私たちの大きな罪とそれ故に課せられる刑罰の重荷が、確実に、この方のうえに置かれていることを、私たちに指し示しているからです。

 決して罪を犯されなかった方、決して神によって罰せられる理由のない方が、苦しんでおられます。これだけ切実に苦しまれて、三度も行ったり来たりしながら落ち着きを失い、からだ全体で苦しみを受け止めて、死ぬほどの苦痛を、一人でその身に引き受けておられます。主イエスは、私たちの分まで神に恨まれ、怒りの杯を飲み干してくださいました。神のわたしへの裁きは、主の十字架で終わりました。

 ですから、私たちはもうおびえなくともよいのです。神に裁かれるという恐れから解放されました。悔い改めと感謝をもって平安の中で生き、また、裁きを恐れることなく、同じ平安の中で死を迎えます。