2009年3月7日(土)マタイ24章 目を覚まして生きる


「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」(マタイ24:46)

 「世の終わり」についての議論がなされるときに、しばしば引用される言葉があります。それは宗教改革者ルターが語ったと推定されている言葉です。「たとえ、明日この世界が滅びることを知っていても、わたしは今日、なおわたしのりんごの若木を植えるだろう。」これはあらゆる危機や脅威のなかでも、希望の明日があることを信じて生きることを指し示す言葉です。

 主人としもべのたとえが示すように、主人が不在のとき、つまり神が不在であるかに思えるようなときがあります。しかし、たとえ先のことが分からず、自分がその実を摘む見通しが立たないときにでも、主人である神が再び来られることを信じましょう。その将来に目を向けて、りんごの若木を植えましょう。

 たとえ明日世界が滅びることを知っても、そこに働く主の御手を信じましょう。そのために今日やる仕事をないがしろにせず、希望に根を張った忠実な用意をしたいものです。24章で繰り返し語られる「目を覚ましている」とは、神の前でのこのような生き方を指し示しています。