2009年1月26日(月)コヘレト1章 空しさとの戦い


なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
何もかも、もの憂い。
語り尽くすこともできず、
目は見飽きることなく、
耳は聞いても満たされない。(コヘレト1:2,3,8)

 空しさの反対は、満ち足りていることでしょうか。信仰の歩みにおいては、空しさの反対は喜びであると思います。信仰には喜びがなければならない、とは決まり文句のようですし、それには、誰もが同意します。信仰生活、教会生活の中で、喜びを主題とする集会、学び、研究は大いに喜ばれます。

 喜びのない信仰生活、つまり、喜びのない人生は、一刻たりとも経験したくはありません。しかし、現実には、日々、私たちは、喜びの対極である、空しさに取り囲まれ、空しさを避けることができずにいます。まったく言葉の矛盾ですが、現実は空しさに満ちています。

 では、空しさを忘れるほどの、空しさを圧倒するほどの喜びを味わうようにすれば、問題は解決なのでしょうか。そう思うとき、人は、ときとして、熱狂に走ります。でも、醒めたとき、空しさに戻ります。

 むしろ、空しさそのものを喜びとする知恵がないかどうかを求めましょう。コヘレトは、空しさを見極めたうえで、その空しさを「充実」に変えてしまうものを探求しています。