2021年1月10日(日) 神の恵みを数えながら

 おはようございます。2021年1月のメッセージを担当します、忠海教会の唐見です。

 昨年は新型コロナウイルスの影響で例年とは異なることがいろいろありました。そのうち我が家にとって大きな出来事の一つは、学校の臨時休業でした。3人の子どもはみな学校が休みとなり、3月から5月の3か月、基本的にずっと家にいるという生活でした。夏休みであれば、キャンプ、プール、夏期講習など、いろいろ予定があってずっと家にいることはほとんどなく、休みとはいってもそれなりに忙しそうです。しかし、学校の臨時休業の趣旨は新型コロナウイルスの感染拡大防止ですので、基本的に外出できないわけです。自宅の牧師館と職場の教会が数メートルしか離れていない私にとって、子どもたちが日中家にずっといるのを見て、ある種の非日常を感じました。

 そしてこの期間は、教会ではイースターからペンテコステにかけての時期でした。非常事態宣言が出されていて、マスク着用、手指消毒、礼拝堂の椅子の配置の見直しなど、基本的な感染拡大防止対策を講じるとともに、重症化のリスクの高いご高齢の方や障がいを持つ方々の礼拝出席は控えていただいていました。

 そのような中、説教準備のためにほぼ毎年同じ時期に目を通してきたある聖書の言葉が、これまでとは違う形で響いてきました。それはレビ記23章、巡礼祭に関する記事です。「あなたたちはこの安息日の翌日(この安息日というのは過越節の安息日です)、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満7週間を経る。7週間を経た翌日まで、50日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる。各自の家から、10分の2エファの上等の小麦粉に酵母を入れて焼いたパン2個を携えて、奉納物とする。これは主にささげる初物である。」(レビ記23:15-17)

 過越の安息日の翌日から50日間、すなわちペンテコステの日まで毎日神殿に行って初穂の奉納物をささげよと命じられています。ユダヤの伝統ではこのことを「オメルの数え」といいます。オメルというのは大麦あるいは小麦の奉納物の束のことで、例えば今日が10日目だとしたら、大地の実りを与えてくださった神への賛美の言葉に続いて「今日は10日目、オメルで数えて1週間と3日目」というふうに、独特の節回しで表現します。

 この個所を読みながらふと思ったわけです。オメルを献げることができないときはどうしたのだろう、日照りや大雨などで不作の年はどうしたのだろう、あるいは戦争で耕作自体ができなかったときはどうしたのだろうか。さらにまた、オメルを献げることができない場合に、命じられた神はどのように思われたのだろうか、とも。

 それをしなければならない、あるいはそれをしたいという強い思いはあっても、それができないことがある。そんなことはあたりまえのことで、分かりきっているはずのことなのですが、新型コロナウイルスによって生じた制限の中で、あらためて思うに任せない現実を突き付けられた気がしました。

 そして、そのことを思い巡らしているうちに、パウロの手紙の1節が思い浮かんできました。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)この聖書の言葉は、たとえ規定通りの初穂の奉納物を献げることができないとしても、わたしたちはいつでも主に喜ばれる献げ物を献げることができるのだと教えてくれます。

 主は人間の心をご覧になられるお方です。たとえ思うに任せない現実の渦中にあって、できることがどれほど制限されていようとも、私たちが最善を尽くすときに神は喜んでくださいます。神が私たちに与えてくださっている恵みを日々数えつつ、感謝の思いを持って応えようとするとき、神は必ず受け入れてくださるのです。