2020年10月18日(日) イエス・キリストと出会った人たち-カナンの女

 おはようございます。高知市上町4丁目にあります、日本キリスト改革派高知教会の小澤寿輔です。
 今月は「イエス・キリストと出会った人たち」というテーマで聖書に聴いています。聖書のお話の中に、まことの神を見つけ、熱心に願い、求めていた命の救いを受けた人がいました。カナンの女です。第7回の今日は、カナンの女とイエス・キリストの出会いの場面について聖書に聴きましょう。(以下マタイ15:21-28参照)

 イエス・キリストが、ガリラヤ地方から旅して、異邦人の地、ティルスとシドンの地方に入られると、カナンの女が近づいてきました。カナン民族はイスラエルにとっては異教徒で、先祖代々にわたる民族的な敵でした。そのような敵対関係にあるカナン人の女が、イエス・キリストに何の用があるというのでしょうか。

 彼女は言います。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」彼女は、悪霊に取りつかれた娘を思う一心から、イエス・キリストに助けを求めたのでした。そのとき、カナンの女は「主よ、ダビデの子よ」と呼びました。イエス・キリストがそのような称号で呼ばれ、多くの癒しの奇跡を行われていたことを、彼女は知っていたようです。そして、彼女自身もその称号を用いてイエス・キリストに対する尊敬と信頼を表しています。

 けれども、イエス・キリストは彼女に対して何もお答えになりません。ただ彼女があまりにしつこいので、イエス・キリストは沈黙を破り、一言「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われます。この言葉の意味はこういうことです。「わたしの働きは、失われた羊を探し求めて家に連れ戻す、神の羊飼いとしての働きである。神が養われる羊の群れとは、神がお選びになったイスラエルの民である。神に背いて散り散りになったイスラエルを、やがて一つの民へと回復するという神の約束を、旧約の預言者たちが語っていた。わたしはその神の約束を果たすために、イスラエルの民のもとに遣わされたのだ。」それはつまり「わたしは異邦人のためには何もしない」という意味になります。

 もしあなたが誰かにお願いごとをしたときに、相手に無視され、却下され、その却下の理由を淡々と説明されたらどうするでしょうか。そのお願いごとの内容にもよりますが、もう諦めて他の方法を探すのではないでしょうか。しかしこのカナンの女は、決して後に引こうとはしませんでした。むしろ、イエス・キリストの前に出てひれ伏して言いました。「主よ、どうかお助けください」。なんという粘り強さでしょう!

 すると、比喩を用いた知恵問答のような会話が始まります。イエス・キリストは彼女の願いを断固として聞き入れないかのように「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と答えられます。「子供たちのパン」とは、イエス・キリストが神の選民のみに与える「祝福」のことです。イエス・キリストはカナンの女のことを「小犬」にたとえています。

 「小犬」と聞きますと「可愛い」という良い印象を持つかもしれません。けれども「犬」というのは、旧約聖書では卑しい獣とされていて、ユダヤ人が異邦人を蔑むときに使う言葉です。しかし、カナンの女はどこまでも謙遜に、イエス・キリストに向き合います。「小犬」と言われて逆ギレすることもなく、「主よ、ごもっともです」とそのまま受け止めます。そして次のように言います。「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」彼女のこの切り返しは絶妙です。知恵とともに、謙遜さとイエス・キリストへの信頼が輝いています。

 イエス・キリストは、ついに彼女にお答えになります。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」一途にイエス・キリストを信じて助けを求めたカナンの女は誉められました。そしてそのとき、彼女の娘の病気は癒されたのでした。

 このカナンの女とイエス・キリストの出会いには、とても大きな意味があります。それは、旧約聖書の時代には神の選民イスラエルの敵と見なされた異教徒でさえも、「まことの信仰」があれば神の救いの恵みに与ることができるということです。カナンの女の内に「まことの信仰」が見いだされたとき、イエス・キリストを通して与えられる「命の救い」が「神の選びの民」という古い制限を越えて行きました。たとえ異教の地に生まれた者であったとしても、聖書が証しするイエス・キリストを神の子と信じて、心から救いを求めて近づくならば、神が憐れみによって命を救ってくださるのです。

 日本人の私たちもまた、異教の地に生まれ育った者たちなので、イエス・キリストのお言葉を借りれば「小犬」に当たります。「小犬」には、本来、神の「子供たちのパン」の分け前はありませんでした。けれども、今や異邦人として生まれたことは問題ではなく、信仰を通して、主の食卓に備えられた「命のパン」をいただくことができるのです。イエス・キリストから「小犬」と言われても「もっともです」と答えた婦人は、その信仰が本物と認められて、主の食卓に連なることが許されました。

 イエス・キリストを「まことの救い主」と信じたその時から、もはや「小犬」ではなく、正当な「神の子どもの一人」となるのです。今日このラジオを聞いているあなたも、そのような恵みを受け取りませんか。