2020年10月4日(日) イエス・キリストと出会った人たち-サマリアの女

 おはようございます。高知市上町4丁目にあります、日本キリスト改革派高知教会の小澤寿輔です。お元気にお過ごしでしょうか。
 1月に引き続き、10月も「イエス・キリストと出会った人たち」というテーマで聖書にお聴きしたいと思います。

 日本には「八百万(やおよろず)の神々」を信じ、あらゆる被造物を神として祭る習慣があります。また民族宗教からくる、数多くの迷信がはびこっています。そのような国にいると、どの神が本物の神なのか分からず「どれでもいい、とにかく信じることが大事。」とよく言われます。

 私もイエス・キリストと出会う前はそうでした。受験生の時、合格祈願のために初詣に行き、先祖の墓に手を合わせにお寺に行き、神の導きを求めてキリスト教会の礼拝に行っていました。実は、聖書の中にもそのようにまことの神を知らず、迷信に頼って生きていた人がいました。サマリアの女です。1月から数えて第5回の今日は、サマリアの女とイエス・キリストの出会いについて聖書に聴きましょう。(以下ヨハネ4:1-30参照)

 ある日の正午、旅をしていたイエス・キリストの一行が、シカルというサマリアの町に着き、「ヤコブの井戸」の傍らに腰を降ろして休んでいました。そこへ、サマリアの女が水を汲みにやって来ました。彼女は一日で最も暑い正午に、重い水がめを担いで2キロも3キロも歩いて「ヤコブの井戸」までやって来ました。人目を避けながら、「ヤコブの井戸」に、ある宗教的願いを込めて汲みに来ていたようです。

 「その水を飲めば、自分の罪が清められる」と信じていたのでしょうか。それとも「この水を飲むとヤコブの祝福を受けられる」と信じていたのでしょうか。とにかくサマリアの女にとって「ヤコブの井戸」の水を飲むことは、とても重要なことでした。人生に自信が持てず、男を頼って結婚と失敗を5回も繰り返し、今は男と同棲はしていても、結婚をする決意ができません。頼るものを失ってしまったので、この水は彼女にとって最後の頼みでした。

 しかし、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。」とイエス・キリストは言われました。「ヤコブの井戸」の水に期待をかけるのは空しいことです。それは、ただの「水」にすぎないからです。「水」にかけて、イエス・キリストは「あなたに生きた水を与える」と言われました。そのイエス・キリストがお与えになる「生きた水」とは、まことの神に対する人間の霊的渇きを根源的に潤す「永遠の命に至る水」のことです。

 イエス・キリストは言われます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」イエス・キリストが与えてくださる水を飲む、すなわちイエス・キリストを信じて心に受け入れる人は、心の内に「永遠の命に至る水」がわき出る「泉」が与えられます。常に新しい水がわき出る泉のように、私たちの心の中から「命」がわき出て、尽きることはありません。

 この永遠の命を受けるにはどうすればよいのでしょうか。イエス・キリストはユダヤ人であれ、サマリア人であれ、男であれ、女であれ、誰でも「水を飲ませてください。」と願うならば、その渇きを十分に満たすことのできるお方であり、すべての人を「永遠の命」へと招いてくださるお方です。

 サマリアの女は、イエス・キリストから、イエスは救い主であるということ、またイエスが与えてくださる「神の賜物」が「永遠の命」であることを示されることによって、すべての問題の解決を得ました。その後彼女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に「さあ、見に来てください。…もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と語りました。彼女は、水がめのことを忘れてしまったのでしょうか。いいえ、そうではありません。忘れたのではなく、そこに置いて行ったのです。

 サマリアの女は、イエス・キリストに出会って「永遠の命」を得て、あふれるばかりの喜びに満たされたのです。水がめのように重い「サマリアの迷信」から解放されたのです。イエス・キリストに出会い「永遠の命」を知った後は、もはや人目を恐れることもなくなり、堂々とありのままの自分の姿で生き始めたのです。このようにまことの神との出会いによって、サマリアの女は、ヤコブの祝福を受けるための水はもう必要なくなったのでした。

 今朝このラジオを聴いているあなたも、イエス・キリストのもとに来て「永遠の命」をいただき、どのような迷信や自己否定にも縛られない、あふれるばかりの喜びの人生を歩み始めませんか。