2020年8月16日(日) アダムの系図

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 聖書を読んでいると、なじみのない名前が記された系図が長々と続く個所に出会います。特に旧約聖書の一番最初の書物である『創世記』には、「誰それの系図は次のとおりである」と記された箇所が何度も登場します。最初に登場するのはアダムの系図で、創世記の5章全体がアダムの系図に充てられています。

 系図の記され方もパターン化されていて、読んでいて少し退屈な気持ちになってきます。「誰それは何歳になった時、何某(なにがし)をもうけた。何某をもうけた後、何年生きて息子や娘をもうけた。誰それは何年生き、そして死んだ。」つまり、何歳の時に家督を受け継ぐべき者が生まれたのか、そのあと何年生きたのが、そして何歳の時に亡くなったのか。ほとんどそれしか記されていない系図です。

 しかも、そこに名前が記されている人々が、現代人と比べて、あまりにも長寿であることに驚きを感じます。百何歳というレベルではありません。800歳、900歳という長生きです。ここまで長生きであると、年齢の数え方が今とは違うのではないかという疑問さえ出てくるくらいです。

 しかし、系図の退屈さや現代的な疑問はいったん脇へ置いて系図を眺めていると、一人だけ違う特徴を持った人物が出てくるのに気がつきます。他のすべての人が「何年生きて、そして死んだ」というワンパターンな終わり方をしているのに対して、エノクという人物だけが、違う最後を迎えます。エノクの最後はこう結ばれます。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5:24)

 エノクだけが「死んだ」という言葉が使われていません。そこでいろいろな憶測が生まれます。ある人はこう考えます。エノクだけが、死を経験しないで神のもとに直接召されてしまったのではないか、と。別な人はこう考えます。エノクは山か海で遭難したため誰もエノクの遺体を確認できなかったので、「死んだ」という表現を避けたのではないか、と。今となってはどちらが本当なのか確かめることなどできません。創世記のわずかな記事からどちらが正しいのかを判断することもできません。謎は謎のままです。

 エノクについて記されていることではっきりしていることが一つあります。この系図の中に登場する人物の中で、エノク以外に誰一人として、「神と共に歩んだ」といわれる人が他にいないということです。そして「神と共に歩んだ」ということと、「神がエノクを取られたのでいなくなった」ということが、当然のように結びついているということです。

 少なくともエノクを直接知っている人々にとっては、エノクは神と共に歩んだので神がお取りになったのだ、と言われて、少しの疑問もさしはさむことはなかったことでしょう。エノクのことを知らないわたしたちが考えるようなエノク遭難説は、みじんも思い浮かばないほど、エノクの生涯は神と共に歩む人生だったと誰にも思われていたに違いありません。

 これらの系図に登場する人物の中で、キラリと輝くエノクの生涯を、わたしは必要以上に美化するつもりはありません。むしろ、罪が支配し始めた人類の歴史の中で、神はそれでもなおこの世界を見捨てることはなさらず、神と共に歩む人を備えてくださっているのだ、という恵みを覚えたいと思います。神と共に歩むというのは、人間が神の歩調に合わせて歩むというよりは、神が罪深い人間に歩調を合わせてくださっているのだと思います。その恵みを素直に受けて歩むことこそ、神と共に歩み続ける秘訣であるように思います。