2020年5月31日(日) 絶対的存在

 おはようございます。高知県安芸市にあります、芸陽教会の大宮季三です。
 先日、私の愛用しているランニングシューズが汚れてしまい、とてもショックを受けました。ランニングシューズは屋外で使うものなので、汚れていくのは当然のことなのですが、自分が想像していないかたちで汚れてしまうととてもショックを受けました。目に見えるものは時間によって同じ状態ではなくなったり、何かがきっかけで一瞬で失われたりします。

 見えるものは変わり、失われていく。お金や財産、仕事、肩書きなども同じです。一瞬で消え去っていくものです。そんなことはわかっているはずなのですが、私たちは地上で手にするあらゆるものに執着します。広告や宣伝は私たちにあたかもその商品が絶対に必要かのように迫ってきます。「この商品を買わなければ損をしますよ。」「みんな、この保証に入っていますよ。」

 いつの間にか、「絶対に必要」なものが私たちの人生には増えていきます。これまで持っていなかったものであっても、手にすることによって一つ一つに執着し、絶対的な価値観を持っていくようになります。モノだけでなく、仕事や社会的地位も同じです。それを失うこと、損なうことに自分が精神的に追い込まれてしまったり、人間関係に亀裂が生じてしまうこともあります。私たちが手にするものは、限りのある有限なもので、何かによって価値が一瞬にして変わってしまう可能性のある相対的なものです。しかし、相対的なものに絶対的に依存してしまい、そこにしがみつき、あらゆる悲惨なことが生じてしまいます。

 絶対的な存在にしか、絶対的な依存は本来すべきではありません。では、その絶対的な存在とは何でしょうか?それは唯一、世界を創られた真の神ただお一人だけです。世界を造られた真の神ご自身は、限りのある有限な存在ではなく、何かによって変化する方ではありません。神はどこにでもおられ、何にも依存することなく存在されているお方です。

 そして神は、場所の制限なくどこにでも存在しておられます。今、私のところに存在されていると同時に、ラジオをお聞きのあなたのところにもおられます。そして、この真の神は永遠に生きておられるお方です。時がどれだけ経とうと、天地がひっくり返ろうと、神の存在は変わることがありません。

 この真の神の元からやって来られた神の子イエス・キリストは、「私が与える水を飲むものは、決して渇くことがなく、その人のうちで泉となり、永遠の命への水が湧き出る」とおっしゃいました。永遠の存在である真の神が遣わされた神の子イエス・キリストと共に生きる者もまた、「永遠に生きる命」が与えられると聖書は教えています。

 イエス・キリストと出会い、イエス・キリストを宣べ伝えたパウロという人物は、「一切のことはちりあくた」だと言いました。無限であり、永遠である絶対的存在の神との交わり、永遠に生きる命を頂くのであれば、この地上のすべてのものは移り変わりゆく相対的なものであることを確かに知り、新しい価値観の中で生きることができます。

 本当に変わらない真実のものはなにか、「絶対」的な唯一の存在を教会は宣べ伝えています。