2020年4月26日(日) 保育の父・佐竹音次郎(2)

 おはようございます。宿毛教会の瀬戸雅弘です。
 聖書に触れて、この神の言葉に心動かされ、生き方を変えられた人は多くいます。先週に引き続き、今朝も「保育の父・佐竹音次郎」についてお話しします。

 ソウル郊外にある楊花津(ヤンファジン)外国人宣教師墓地には、韓国に福音伝道した145人の墓があります。これは韓国宣教100周年を記念して設立されたのですが、その中に日本人で唯一、曾田嘉伊智(そたかいち)の墓があります。曾田嘉伊智は、保育の父・佐竹音次郎がソウルに鎌倉保育園京城支部を設立した時に支部長を任された人物です。

 佐竹音次郎は明治、大正、昭和の戦乱の時代、神の言葉に突き動かされ社会事業を行いました。その方法は我が子と他人の子を分け隔てなく育てる、一視同仁(いっしどうじん)を貫くものでした。これが音次郎の掲げた理想で、自ら聖愛主義と名付けました。聖愛主義の聖とは聖書の聖ですし、愛とは救い主イエス・キリストを私たちに与えてくださった父なる神の愛のことです。

 音次郎が展開した事業は現在の児童養護施設に相当します。しかし保護を必要とする子供だけではなく、心身に障害のある人たちも家族として受け入れて生活を共にしました。そういう意味では身体障害者施設や自立支援施設、特別支援学校の機能も備えた複合的福祉施設です。我が子として受け入れるのですから「もはや彼らは孤児ではない。保(やす)んじて育てる保育園だ。」と、施設の名称も独自に生み出しました。これが現在の「保育所」という言葉のルーツです。

 音次郎は腰越医院に併設した小児保育院で子供を養育しました。しかし限界を感じ医業を廃し保育事業に専念します。1905年、音次郎41歳のことです。音次郎は日記をつけていて、それは現存しますが、日曜日はほぼ毎週、鎌倉教会や行く先々の礼拝に出席します。そして毎日聖書を読み、家庭でも礼拝をしています。そんな敬虔なクリスチャン音次郎に電撃的なメッセージが語られます。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ19:18) この宣教師の説教では「日本人は近隣の国に対してこの神の言葉を実践しているとは言えない。」と語られたのです。音次郎の視野が身の回りの子供だけでなく、戦乱の中で犠牲になる小さい存在にも広がった瞬間です。

 音次郎は医者であるときには自分の収入で子供を養うことができましたが、保育事業に専念してからは資金調達に苦心の連続でした。ある時「政府要人や軍人に書画を描いていただき、集めた物で書画展覧会を開催し、それを販売して資金調達すればよい。」と、秋月古香(あきづきここう)から提案されます。これから音次郎の保育資金はこの方法によって生み出されるようになります。

 ある時、最大の協力者であった益富政助は、音次郎に歯に物着せずにこう語ります。「今の時代、日本人が大勢韓国に渡っていくが、その動機は一攫千金を夢見てである。まるで我利我利亡者(がりがりもうじゃ)だ。私は多くの日本人の中から一人ぐらいは純然たる博愛精神で、ただ一途に韓国のことを思い、韓国のために身も魂も捧げて働きをなす者があって然るべきだと思う。佐竹さん、あなたはそうした使命を感じて立ち上がりませんか?」

 音次郎は教会で語られた言葉とあわせ、考えました。「他人の子と自分の子と区別をつけないなら、他の民族の子供もまた我が子のごとく育てられるはずである。しかも韓国は隣国。なおのこと、隔てのない愛を注ぐべきではないか。」音次郎はこれこそ神の声であると信じました。音次郎は資金調達の為に当時日本が進出していたアジアの国々を訪問しました。しかしその先々で、音次郎の目には小さい存在が映り、その時々の導きによって海外支部を設立するようになります。旅順、京城、台湾、大連、北京と日本が敗戦するまで海外5支部を運営して、それぞれの地域で保育事業を行いました。

 音次郎が医者になった時はじめて新約聖書を手にしますが、その大部分の著者はキリストの弟子パウロです。パウロは生粋のユダヤ人でありながら、世界を支配していた帝国ローマの市民権も獲得していました。パウロはこの2つの国籍を巧みに利用しながら、イエス・キリストの十字架と復活の福音を全世界に宣べ伝えて行きます。この福音が2000年後の日本にも及んでいます。

 音次郎が戦渦に巻き込まれ時代に翻弄される小さい存在のために立ち上がりました。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」との聖書の言葉に動かされたのです。そしてまるで従軍するかのように、政府要人や軍人の支援を受けつつ、この神の言葉を実践しました。この音次郎の足跡を考えるとき、私はパウロの歩みと重なって見えてきます。

 神の言葉は生きています。私も今朝、キリスト教会に向かい、語られる神の言葉から新しい原動力を頂きたいと願っています。