2020年1月26日(日) イエス・キリストと出会った人たち-マタイ

 おはようございます。高知市上町4丁目にあります、日本キリスト改革派高知教会の小澤寿輔です。
 今月は「イエス・キリストと出会った人たち」というシリーズで聖書に聴いています。イエス・キリストと出会うと、人は新しい人に生まれ変わります。それがどのようにしてなされるのかを聖書の登場人物をあげて見ていきたいと思います。第4回の今日は、マタイとイエス・キリストの出会いです。(ルカ5:27-33参照)

 マタイという人は、仮にイエス・キリストに従うことを志願したとしても、それはとうてい不可能と思えるような人物でした。マタイは生粋のユダヤ人でした。しかし徴税人の職についていたのです。「徴税人」とは、同胞のユダヤ人から税金を取り立てて、ユダヤ人を支配しているローマ皇帝や、皇帝によって任ぜられた領主にそれを納める仕事をする人です。マタイは、同胞のユダヤ人にではなく、異邦人に仕えていたのです。

 それで彼は「裏切者」とか「売国奴」と、ユダヤ人から口汚く罵られ忌み嫌われていました。「イエス・キリストが、いくら一般のユダヤ人とは違ったお方であるとしても、まさか徴税人をご自分の弟子として受け入れるなどあり得ないだろう。それどころか、相手にもしないだろう。」と思われていたに違いありません。マタイ本人も、そのようなことは十分承知していたことでしょう。

 ところがです。イエス・キリストは、わざわざマタイのいる収税所にまで出向いて、そこに座っているマタイを見つけて「わたしに従いなさい」(27節)と言われたのでした。「わたしに従いなさい。」これは、とても短い言葉ではありますが、すべてを変える革命的力を持っています。「収税所に座って」いたマタイは、「わたしに従いなさい」と声をかけられると、「イエスに従った」のでした。それも「座って」いたのが「立ち上がってイエスに従った」のでした。イエス・キリストの招きに、即座に応答したのです。

 イエス・キリストに従ったマタイは、何を最初にしたでしょう。それは人々を自分の家に招いて宴会を開く、ということでした。かの有名なイエスが、こんな自分にも声をかけてくださり、関係を築いてくださったのですから、マタイはその大きな喜びと感謝の気持ちを表したかったのでしょう。

 でもこの宴会には、もう一つ大切な理由がありました。この食事に招かれたのは、「徴税人や罪人」です。徴税人は、同胞のユダヤ人から毛嫌いされていました。また「罪人」とは、律法を守ることのできない者を指し、正統派のユダヤ人は、こういう者たちと関わることをいっさい禁じられていました。ですから「徴税人や罪人」たちは、たとえイエスのもとに行きたいと願ったとしても、白昼堂々とそうすることはできませんでした。

 そこでマタイは、彼の大切な友達も、イエスに会って御教えを聞き、自分が今持っている「平和」と「喜び」に与れるようにと心から願ったのでしょう。自分の家で宴会を開けば、イエスを必要としている自分の友人や同僚たちもイエスと共に食事をすることができ、会って話ができる。そういう意図があったに違いありません。ユダヤ人にとって、共に食卓に着くということは親密であることのしるしでした。イエスと、イエスの弟子たちと食事を共にするということは、「徴税人や罪人」の仲間たちにとっては、大きな喜びの時であったことでしょう。

 この、新たに生まれ変わったマタイの姿を想像してみてください。回心したのち、すぐに善い業に励んでいるのです。主イエスと出会う前のマタイがどういう人であったかは、記されていないので分かりません。けれども、回心してからのマタイには、情熱がみなぎっています。新しい人に造り変えられ、神への愛と、隣人への愛によって突き動かされています。なんと美しい姿でしょう。このように、神の救いの恵みを経験したとき、その心に「家族を救いに導きたい、大切な友を救いに導きたい。」という熱意が湧き上がってくるのです。

 世の人々は皆、そのように自覚していないかもしれませんが、自分の罪のゆえに、また罪深い世の中で、希望の無い、苦しい人生を生きています。暗闇の中で模索しているので何も見えず、自分がどちらに向かっているのか分かりません。また、どちらに向かえば良いのかも分かりません。決して揺らぐことのない絶対的信頼の置けるものは何もなく、不安で空しい人生を生きています。中には、寂しさや劣等感、自己嫌悪に苦しめられている人もあるでしょう。

 そのような人たちが救われる道は唯一、神の憐れみにすがることです。罪の重荷を下ろして、人生を、喜びをもって生きていく道は、イエス・キリストにのみあるのです。「イエス・キリストとの喜びの交わり」にこそ、その道は開かれているのです。その道へと、イエス・キリストご自身が今日も招いておられます。

 その「喜びの交わり」はキリスト教会にこそあります。教会は、この「マタイの家」と同じ場所なのです。それぞれの教会で天の祝宴が開かれています。招かれているのは、イエス・キリストに会えるのを喜んで集う「罪人たち」です。あなたも、日曜日ごとの「喜びの交わり」である「教会」へ行ってみませんか。あなたも礼拝の中でイエス・キリストと出会い、活き活きとしたキリストの祝宴の喜びに招かれているのです。