2019年6月2日(日) 最後の者にも

 おはようございます。広島にあります平和の君教会の山下です。

 昨年の夏は殊の外暑く、加えて西日本豪雨災害に見舞われ、広島県の瀬戸内側で甚大な被害が出ました。3週間が経った頃、ボランティア不足とのことで、呉市の天応地区での支援に思い切って参加しました。その日は気温36、7度はあったでしょうか。午前中は初心者が多く無理のないペースで進めたのですが、午後からはベテランの方が加わり、ハイピッチで作業が行われ、みるみる内に片づいていきました。同じボランティアでもこうも違うものかと感心させられました。

 今日の聖書のお話の舞台は、ぶどうを収穫する暑い夏の作業が背景になっています。収穫は、一気に行わなくてはなりませんので、早朝に雇われた者から、最後は日没前の1時間の人達までさまざまです。そうして一日が終わり、賃金の支払いが始められ、わずか1時間しか労働しなかった人にも一日分の賃金が支払われたのです。それは、何よりもぶどう園の主人の大きな感謝を表すものでした。それを見た早朝から働いていた人は、もっと多くもらえると期待したのに、彼らが受け取ったのは、約束の一日分、つまり最後の者と同額だったのです。それで彼らは怒り、主人に抗議したのです。

 わたしには、彼らの抗議の思いがよく分かります。炎天下慣れているとは言え日陰のない所で丸一日働くのは、とても疲れますし、大変な体力や根気も必要だからです。それに見合う報酬があれば報いられますが、そうでないと不満や反感が募ります。

 どうしてぶどう園の主人は、このような不公平をしたのでしょうか。それは、ずっと一日中炎天下で雇われずに一人ぽつんと立ちすくんでいた最後の者の辛さ、寂しさ、不安や絶望を主人は思いやってくださっていたからなのですね。その最後の者にも先に雇われた者と同じようにしてやりたい、主人は心から願っていたからです、このお話は、この世の労働の価値や常識を遙かに超え、一方で戸惑いと疑問を抱かせます。しかしこの愛の配慮、思いやりはどんな人にも、どんな場合にも不可欠で大事なのではないでしょうか。
 
 通常は、又常識的には多く働いた者が多くを得るのは当然です。聖書の言葉にも「働かざる者、喰うべからず」とあります。しかしそれだけしか適用されないと、そこから漏れる人達や国々が出てくるのではないでしょうか。競争の原理だけでない、もっと別の価値や基準によって計られることも大事です。

 そして何よりも神様がめいめいにに与えられている分で満足しない心から、差別や搾取や格差が生まれ、それらがやがて戦争へと至るのです。事実、現代の日本社会で見られる見落とされている人達や失われた人達の数は、数十万とも数百万とも見積もられているとのことです。全ての人に降り注がれる神様の広く大きな愛による配慮という視点が少しでも認められ、分かち与える恵みや互いに仕える喜びが回復されていくならば、どんなに住みよい、優しい世界になっていくでしょうか。

 災害は負の遺産だけでなく、ボランティア活動を通してむしろますます閉塞する現代を新たな視点で見直していくきっかけとなれば、と切に祈り願います。