2019年2月10日(日) こうして生きる者となった

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。

 「生きる」ということについて考えるのは、人間の特徴だと思います。変な言い方をしますが、「生きる」ということについて考えなくても、そんなことを考えている人は既に生きています。死んだ人も、またこれから生まれてくる人も、「生きる」ということについて考えたりはしません。生きている人だけが「生きる」ということについて考えます。

 ある人は言うかもしれません。「生きる」ということについて考えなくても、すでに生きているのだから、そんなことを考えるのは意味がない、と。確かにそれも一理あります。けれども、人間が考える「生きる」という意味は、ただ、心臓が動いているとか、息をしているとか、食べるものがあるとか、そういう問題ではありません。

 ちょっと想像してみてください。こんな世界にあなたは生きがいを感じるでしょうか。 食べるものも、着るものも、住むところも完全に保証されます。ただし、条件があります。それは、1日6時間の労働が求められるということです。しかも全く単純な労働です。

 最初の1時間は、できる限りゴミを散らかします。そのあと、それをきれいに掃除します。掃除が終わったら、またゴミを散らかします。そしてまたそのごみを拾い集めて掃除をします。その繰り返しを延々6時間つづければよいだけです。この労働に何の意味もありません。誰かの役に立つということも、自分のためになるということもありません。ただ、それをこなしさえすれば、生活が保証されます。

 おそらく、3日もすれば飽きてくるでしょう。少なくとも、こんな人生が幸せだと感じる事もないでしょう。人間とは生きる上で必要なものが与えられさえすれば、それで「生きている」と満足できる存在ではないのです。絶えず「生きるとは」ということを考え、それを探求して生きる存在です。そして、それが人間の素晴らしさでもあり特徴でもあると思います。

 ところで、聖書の最初の書物、「創世記」の第2章に「人はこうして生きる者となった」という言葉が出てきます。どのようにして生きる者となったのか、というと、神が土で造った人の鼻に命の息を吹き入れることによってでした。土で人を形造るとか鼻の穴に息を吹き入れるとか、そういう表現はあまりにも幼稚に聞こえるかも知れません。大切なことは、この表現を通して、「創世記」は読者に何を考えさせ、何を届けようとしたのか、ということです。

 単純に考えれば、土偶には命がありません。命があるというためには、息をしていることが不可欠です。人が生きているか死んでいるのかの判断の一つには、呼吸があるかないかを確かめます。つまり「創世記」が言いたいことは、人間は息をする生きた土偶だ、ということでしょうか。そうではないでしょう。

 「生きもの」という言葉は、聖書の中では人間以外の動物にも用いられています。そして、他の動物も土で形作られたことが、同じ「創世記」の中に出てきます。けれども、決定的に違うのは、他の動物には、神自ら鼻の穴に命の息を吹き込んだ、という記述がないことです。明らかに、「創世記」は動物が生き物である、ということと、人間が生きたものとなった、ということの間に、区別を設けているということです。

 神から命の息を直接吹きこまれたものだけが、生きたものと呼ぶにふさわしい存在なのです。そして人間は、その意味で特別な存在です。そういう存在であるからこそ、「生きるとは」ということについて、考え続けることが大切なのです


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