2018年11月11日(日) 心の清い人の幸い

 おはようございます。高知教会の小澤寿輔です。
 今月は、イエス・キリストの「山上の説教」の「八つの祝福」に聴いています。今朝は、六つ目の祝福についてです。

 マタイによる福音書5章8節で、イエス・キリストは次のように教えておられます。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」

 「心が清い」というのは、どういうことでしょう。この「清い」という言葉には、「混ざり物のない」「水で薄められていない」「混合物でない」という意味があります。この「清い」という言葉を「心」に適用して「心が清い」とすると、それは「動機が純粋である」ということになります。

 どんなに立派な行為であっても、その「動機」が純粋でなければ「清い心で」行ったとは言えません。例えば、何か有益なことのためにお金を惜しみなく出したとしても、心の底に「自分は良いことをしたのだ」という自己満足があるのなら「清い心で」行ったとは言えません。また、犠牲を払って何か良いことをしたとしても、人から褒められ、感謝され、信用されることを期待したのでは「清い心で」行ったとは言えません。

 それでは、どういう人が「心の清い人」なのでしょう。新約聖書のヤコブの手紙は「心の定まらない者たち、心を清めなさい」(4:8)と勧めています。
 「心の清い人」は「心の定まった人」つまり「二心でない一心な人」です。イエス・キリストも、マタイによる福音書6章24節で「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われました。二心を持たず、一心に神のみを見つめ、神のみを求め続ける人が「清い人」なのです。そして、そういう人は「幸い」なのです。

 そのような幸いな人たちについて、イエス・キリストは「神を見る」と言っておられます。「神を見る」というのは、誰も経験したことのない夢のような話です。しかしそれは、人間の最も切なる願いであり、夢でもあります。クリスチャンはいずれ、この清い方、すなわちイエス・キリストと、顔と顔で相まみえるのです。これは、イエス・キリストに望みをかけている人にとって最大の約束であり、究極の目的です。

 どのようにすれば、私たちはイエス・キリストに相まみえることができるのでしょう。一心に、脇目もふらず、イエス・キリストだけを求めてこの世の人生を歩むことです。御子が清いように、その御子とお会いする私たちも、相応しく「清い者」となるべく、自分を清め続けなければなりません。

 当時、イエス・キリストのところに集まって来た群衆の中には、色々な病気の人がいました。中には、外見的にみすぼらしく、人からは蔑まれていた人がいたかもしれません。けれども、みな一心にイエス・キリストを求めたのです。そして、彼らはイエス・キリストに会うことができ、イエス・キリストの祝福である癒しを受けたのです。うわべではなく「心」が清ければ、またその心が「一心にイエス・キリストに向いている」のなら、誰でも祝福に与ることができるのです。

 私たちをとりまくこの世は、雑音だらけです。偽物だらけです。この雑音や偽物に埋もれた世の中を生きていても、「本物」すなわちイエス・キリストだけを見つめて生きましょう。そうすれば、イエス・キリストが再び来られるとき、この方に出会うことができるのです。なんという幸いでしょう。