2012年8月12日(日) 平和を造り出す幸い

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 今週の水曜日、8月15日は終戦記念日です。1945年に太平洋戦争が終結したことを記念する日です。そういっても、あまりぴんと来ない人が多いのではないかと思います。実際、1945年8月15日に生まれた人は今年でもう67才になるわけですから、それよりも若い世代の人たちはかつての戦争を知っているはずがありません。そういう戦争を知らない世代は、日本の人口全体のおよそ四分の三にものぼります。
 そう言っているわたし自身も、戦争が終わってから12年たって生まれていますから、ほとんど戦争につながることを見聞きしていません。かろうじて覚えているのは、人の集まるお祭りの時などに、戦争で負傷したという兵隊さんがアコーディオンを演奏しながら物乞いをしている姿です。それも、1960年代の後半にはもうほとんど見かけなくなりました。もっとも後で聞いた話ですが、そうした物乞いの大半は偽の負傷兵だったそうです。
 わたしが育った時代は、東京タワーが建ち、夢の超特急ひかり号が走り、東京でオリンピックが開催され、大阪万博に人々が浮かれ、学生たちはゲバ棒をもって学生運動に盛んな時代でした。かつては敵国だったというアメリカの音楽や映画やファッションがすでに当たり前のように受け入れられていた時代です。
 小学生の頃見たニュースでは、ベトナム戦争のことが毎日のことのように取り上げられていた時もありましたが、それは当時の自分にとっては遠い外国の出来事でしかありませんでした。冷戦という言葉もニュースのキーワードによく登場したように記憶していますが、しかし、その言葉も20年以上前になくなってしまいました。
 しかし、この世の中から戦争そのものがなくなったのかというと、決してそうではありません。たまたまわたしが今まで生きてきた時代の日本が、戦争に巻き込まれなかったというだけで、この21世紀の世界には、いまだに戦争で命を落とす多くの若者たちがいます。何とか平和な世界にならないものかと誰もが考えているにもかかわらず、現実はそう簡単ではありません。

 イエス・キリストは「平和を実現する人は幸いである」(マタイ5:9)とおっしゃいましたが、その言葉の重みをひしひしと感じます。もちろん、ここでキリストがおっしゃっている「平和」とは、武力による国家間の戦争がないという状態のことだけではありません。聖書が語る「平和」とは、何よりも神と人間との関係と深くかかわる言葉だからです。
 人間が神の御心に逆らって生きようとするときに、まず神との間の平和が失われます。神との間に平和がない生き方は、その人自身が平穏と平静さを失ってしまいます。誰もが幸福で平和な生活を望みながら、しかし、現実には自分だけの幸福と平和を追求するあまり、互いにいがみ合ったり、むさぼり合ったり、平和の実現とはかけ離れた生き方に陥ってしまうのです。神との間に平和がないために、そうでもしないと安心できないのです。疑心暗鬼に陥って、相手を敵とみなすことで、愛に反する思いも行いも正当化してしまうのです。そういう罪深い人間であるからこそ、イエス・キリストは「敵を愛せよ」(マタイ5:44)と勧めています。

 しかし、神との間に真の平和を造り出すことができるお方、それはイエス・キリストしかおられません。イエス・キリストによって神との間に平和を得ること、このことが大切です。イエス・キリストがおっしゃる通り、平和を実現する人は幸いです。しかし、まず、自分自身が神との間に平和な関係があるかどうか、そのことを問いたいと思います。