2012年5月20日(日) わたしがクリスチャンをやめなかったわけ 第三話

 おはようございます。宿毛教会の酒井啓介です。
 聖書には次の言葉があります。
 「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって(「わたし」とはイエス・キリストですが)、わたしの名によって何かを父に(「父」とは神です)、父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる」(ヨハネによる福音書16章23節途中〜24節)。

 現在、「わたしがクリスチャンをやめなかったわけ」と題して4回に分けてお話しをしており、今日は第3回です。母がクリスチャンという家庭に生まれたわたしがなお今もクリスチャンである理由は、「神が祈りに答えて下さるから」です。そこでイエス・キリストの名によって祈った具体的な経験を先週からお話ししています。

 わたしが大学1年の頃、バイクで自動車教習所に通っていましたが、そこでうっかり鍵を抜き忘れ、盗まれてしまいました。落ち込んで家に帰り、父に話しました。すると泣きっ面に蜂で、「鍵をつけっぱなしにしたお前のミスだ」と怒られ、また「お前が盗んだ方じゃなくて盗まれた方だったからまだよかった」とも言われ、なんだか余計に悲しくなり、ふとんに倒れこみました。そして盗んだ人のことを考え始めたところ、聖書の言葉をすぐ思い出しました。
 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(ローマの信徒への手紙12章14節)。
 不思議にも自分の感情をすぐ切り替えて祈りました。
 「盗んだ人が祝福されますように。あなたの祝福を受けて、バイクが戻ってきますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」
 バイクが戻ってくるように祈るためには、まず相手の祝福を祈らなきゃいけないと思い、ひたすら祝福を祈りました。バイクのためとはいえ、人のために祝福をあんなに必死に祈ったのは初めてでした。祈り始めてから10日程して、父との会話で度々上がっていたバイクの話題がまた上りました。また「盗んだ方じゃなくて盗まれた方だったからまだよかった」と言われたので、その時、「今、バイクを盗んだ人が祝福されるように祈っている」とはっきり伝えたら、若干驚きながら「うーん」と少しうなり、黙っていました。その後、父はわたしの前でもうバイクの話題に触れませんでした。

 その頃だったと思いますが、わたしは「神は全能だ」、ということを本気で信じてみようと思いました。そして思い切ったことを祈りました。
 「一週間後までにバイクを見つけてください。一週間後には見つかっていることを信じます。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」
 本気で信じました。必ずバイクは戻ってくる。神に祈ったんだから戻ってくるのは当たり前だ。そのように考えて祈っていることを家族にも伝えました。

 実は、聖書に次の言葉があります。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればそのとおりになる」(マルコによる福音書11章24節)。

 祈った日の一週間後が水曜でした。一日過ぎて行く度に、喜びが大きくなっていきました。
 「あー、バイクが戻ってくる日が近づいてきた。あと3日経ったら戻ってくる。よしあと2日。よし!あと1日」
そして、その水曜日になりました。
 「よし!今日、バイクが見つかる日だ!」
その夜、不思議なことが起こりました。この続きは、また来週お話しいたします。キリスト教の祈りとは祈ったことは既に得られたと信じる祈りです。