2012年5月6日(日) わたしがクリスチャンをやめなかったわけ 第一話

 おはようございます。宿毛教会の酒井啓介です。
 わたしがクリスチャンをやめなかったわけと題して、今回から4回に分けてわたしの経験談をお話しいたします。どうぞ、この話に歩み寄って下さり、キリスト教の良さが伝わりましたら幸いです。

 わたしがクリスチャンになったきっかけは、母親がクリスチャンだったからです。非常に単純です。わたしは幼い頃からキリスト教を母から教わり、違和感なく吸収しました。やがてわたしが成長して自己形成し、母も人間で限界もあり失敗もする。自分と同じなんだなぁということを理解し始めました。母にわたしがキリスト教についてだんだん難しい質問を尋ねても、詳しく答えきれないことも増えてきました。わたしが二十歳過ぎの頃「そろそろ自分で聖書を勉強するしかない」と思い、母を少しずつ頼りにしないで学び始めました。そういうわけで、大人になるまでは母の信仰をそのまま受け入れて成長し、大人になってからは少しずつ一人で聖書を学ぶようになりました。今でも母の信仰から学ぶことがたくさんありますが、拠り所が母から聖書へ移っていったわけです。

 ところで、なぜわたしはクリスチャンをやめなかったのかと考えますと、うまく答えられないことに気付きました。なぜやめなかったのか。そこで、その答えをはっきりさせたいと思い、祈りました。「主なる神様、なぜ、わたしはクリスチャンをやめないでいるのでしょうか。なぜ、わたしはキリスト教をやっているんでしょうか。」
教会でこう尋ねますと、大抵は、「わたしのような罪人を神様が捕らえていてくださるから」と答えてもらえると思います。しかし、その答えを長く聞き続けていたわたしはもっと具体的な答えを求めていました。神が捕らえているなら、それがどうわたしに現われたのか知りたかったのです。
 祈って、心を整理し、答えの中心にたどり着くために、一つ一つ削り落としました。最初にたどり着いた答えは、「神を信じる素晴らしさを知ってしまったから」でした。そこから、さらに「神を信じる素晴らしさ」とは何のか、祈りました。最初にまとまった答えは、わたしが人として道を踏み外しそうになった時に、誰も止めてくれなくても、聖書の言葉が心に迫り、時にちくりと刺すように、時にわたしを揺さぶるようにして踏みとどまらせてくれた。そういった意味で守られたことだったと思いました。その後、さらに答えをもっと先鋭化させて、そして残った答えは「神が祈りに答えて下さるから」でした。大きな困難や問題、自分自身の内的な問題を含めて、自分の力ではどうにもならないことをイエス・キリストの名によって神に祈る。すると本当に必要なことは答えられてきました。本当に神は生きておられるという喜びと畏れを少しずつ経験したことを思い出しました。キリスト教を信じる親元に生まれた子供は、こういう経験を幼い頃からできるチャンスに恵まれていたと言ってよいと思います。

 聖書には次の三つの言葉があります。
 「あなたがたがわたしに(わたしというのはイエス・キリストですが)、わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネによる福音書15章7節)。
 二つ目は、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に(ここで父とは神のことですが)、父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる」(ヨハネによる福音書16章23節後半〜24節)。
 最後の三つ目ですが、「得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブの手紙4章2節後半〜3節)。

 わたしは小さな祈りが答えられる経験を繰り返し、だんだん大きなことを祈れるようになってきたと思います。みなさんも小さなことからまずイエス・キリストの名によって祈ってはいかがでしょうか。次週、わたしが実際にイエス・キリストの名によって祈ってきたことをお話しいたします。