2012年4月8日(日) 死がすべてではない命

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 キリスト教の暦では、きょうは主イエス・キリストが死者の中から甦ったことを記念するイースターの日です。そう聞いただけで、大半の人にとっては何の興味も関心もない話だと思います。そう感じるのも無理はないと思う理由はいくつもあります。
 もしこれが、若くして命を落としたあなたの愛する人の話であったならどうでしょう。奇跡的に息を吹き返したことを耳にしたら、間違いなく飛んで行って、手に手を取り合って喜ぶはずです。また、喜びながらその出来事を語る人の話を聞けば、それを嘘だとは思わないでしょう。本当によかったと心からそう思うにちがいありません。

 しかし、イエス・キリストの場合はどうでしょう。キリストには会ったこともなければ、身近な人というわけでもありません。おまけにはるか昔のことなので、関心の持ちようがありません。関心がないのは、別にキリスト教が嫌いだからというわけではないでしょう。
 さらに、先ほどの例でいえば、奇跡的に助かったその人も、いつかはまた寿命が尽きて死を迎えます。いつかまた死を迎えるからこそ、起こった奇跡にリアリティがあります。もし、蘇生したその人が200年も300年も生き続けたという話だとすれば、途端に嘘っぽい話になってしまい、だれもその話を喜んで聞いてはくれません。
 しかし、キリストの復活の場合は、まさにそのただの蘇生とは違います。二度と死を経験しない永遠の命への甦りです。だからこそ、誰にとっても信じがたい話であるのは最初からのことです。
 何を隠そう、キリストの弟子たちでさえ、キリストが葬られていた墓が空っぽになっていたと報告する女性たちの話を聞いて、たわごとのようなその話を最初は信じなかったと聖書は記しています。

 よくよく考えてみるまでもなく、復活などあり得るのだろうかと、疑問が沸き起こるのは無理のないことです。そもそも死からの甦りが日常茶飯事に起こっていることであれば、何の抵抗もなく受け入れられる出来事だったでしょう。けれども反対に、復活が普通に起こるできごとであれば、キリスト教をわざわざ宣べ伝える必要もなければ信じる必要もありません。
 考えてもみれば、キリストの復活が本当にあったのかなかったのか、という議論は、実はそれ自体あまり意味のないことのように思えます。人間の経験だけを基準に言えば、キリストの復活を別にすれば、それより前にも、それより後にも、一度も起こったことのない出来事ですから、そんなことはあり得ないことだ、と結論することも当然のことのように思えます。

 しかし、反対に、常識で考えればあり得ないはずのことを、キリストの弟子たちが、命がけで伝えまわったことを考えると、いったいそこに何があったのだろうかと知りたくなってしまいます。もちろん、キリストの弟子たちが復活のキリストに出会ったからこそ、見たままを語ったに違いありません。けれども、どんなに不思議な出来事でも、それを語るだけの価値があることでなければ、それを伝えることにまったく意味がありません。
 たとえば、わたしが捨てた割り箸が、気がつくと一匹の蟻になっていたとします。確かにそれは不思議な話です。しかし、たとえそれが本当のことであったとしても、それは後世にまで伝えるほど価値のあることでもなければ、意味のあることでもありません。まして、命をかけてまで伝えるほどのことでもありません。
 しかし、キリスト教がキリストの復活を今に至るまで臆することなく語り続けているのは、それが人間にとって価値のあることであり、人間の生きる意味と深くかかわっているからです。死んでしまえばすべてが終わりと考える人生観に、キリスト教は正面からノー、そうではないと語っているんですね。