2012年3月11日(日) 失意からの日を数えて

 お早うございます。芸陽教会の宮武輝彦です。
 今日で東日本を襲った巨大地震と大津波から一年となりました。この一年間、365日の一日は、それまでの一日より重くまた長く感じられた方も多いことと思います。おひとりおひとりの中に、神様の慰めと平安をお祈りしています。

 わたしの手元に「發(発)車」という基督(キリスト)者詩歌集があります。敗戦後10年後の昭和30年、1955年に出版されたものです。その中に、当時小学校の教員であった熊美枝子さんが「貧しき者の幸福」という詩をこのように書き残しておられます。

 「貧しき者の幸福 絵も下手 字も下手 社交も下手 世のすべての業に愚鈍な私 こんな私なればこそ 神と人の前に謙虚な心で生きることができるのだ 幼くて父母に別れ 兄弟に離れ 嫁にしては夫に先立たれた私 こんな私なればこそ 神様の懐(ふところ)に 一足飛びに飛び込んで行けるのだ 善きことを望んで善きことをなさず 愛さんと努力して友を憎む弱い私 こんな私なればこそ 神様はしっかりと守っていて下さるのだ 罪に悩み 罪に苦しみ 罪におののく惨(みじ)めな私 こんな私のために 主は十字架に血を流し給うたのだ つまらない私 雫(しずく)なる私 泣き濡れた私 こんな私なればこそ 神様の愛が こんなにもいっぱい満ち溢れているのだ 愚かな醜(みにく)い器に 日夜ふり注ぐ恵みのありがたさ!
 只(ただ)感謝、只合掌(がっしょう)人生四十にして しみじみと想う 貧しき者の幸福を ―1951(年)・7(月)・25(日)―」

 人間、多くのものを失い、貧しいことほど惨めなことはないと思いがちなのですが、この詩には、神様のたしかな守りを信じつつ、どんなに自分が惨めであっても変わることなく恵みが注がれていることに心を向けて、感謝の思いを言い表しています。

 わたしたちのうちに注がれている神様の愛は聖書の言葉が証ししていますが、その恵みを感謝するとき、わたしたちはとても大きな感動を共にすることができます。様々な災害や事故に遭うとき、わたしたちの心は痛みます。苦しみます。また、再び同じようなことが起こるのではないかと不安になります。けれども、どのような境遇の中に置かれても、神様の愛はわたしたちに注がれています。それは、イエス・キリストが自らわたしたちの罪のために、十字架の上で、その身を犠牲としてささげてくださったからです。旧約聖書のイザヤ書53章3節にはこう書かれています。
 「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。…彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」

 イエス・キリスト自らわたしたちのために貧しくなられて、すべての罪の苦しみを負ってくださいました。罪のない正しい御方が、正しくない者たちのためにいのちを捨ててくださいました。このことは、本来ならこれほど不条理で理不尽なことはないのです。そして、イエス・キリスト自ら十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と父なる神様に御心を求めて叫ばれたのです。このイエス・キリストが負われた貧しさを知るとき、わたしたちはどのような失意の中からも立ち上がって、新しい希望を抱くことができます。この一年、とくに大きな悲しみを経験された人々の中に、神様の恵みがこれからも確かに注がれていくことを信じ、祈っています。「希望は失望に終わることはない」(口語訳ローマ5:5)ことを今一度思い起こしましょう。