2012年3月4日(日) 神様の清さと謙遜

 お早うございます。芸陽教会の宮武輝彦です。
 今朝は、天地を造られた神様の清さについてご一緒に思いを巡らせつつ、神様の祝福に心を向けたいと思います。

 旧約聖書のイザヤ書65章5節には、「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている」(新改訳聖書)という言葉があります。これは、果たして神様の言葉でしょうか。それとも偉い人の言葉でしょうか。実は、この言葉は神様から言葉をいただいていた人々が、自分たちを指して自らを聖なるものと言い、おごって人を見下した言葉です。本当に清いお方は神様お一人だけです。人間は死んでも神様になることはできません。かえって、人間の肉体はちりにかえり、その霊魂は神様のもとに取られるのです。

 イエス・キリストがこの世界のただ中に来られた目的は、人間が本当の神様を知ることができるためでした。そして、イエス・キリストは神様の独り子であるにかかわらず自らを低くして、いつも、本当に清く高いお方を人々に表してくださいました。
 ある時、イエス・キリストはこのようにお祈りをささげて、人々に言われました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。・・疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:25-30)。ここでは、イエス・キリスト自ら自分のことを「わたしは柔和で謙遜な者である」と言いました。 わたしたち人間はだれ一人として、「澄みきった青空のようにわたしは清く正しい」と言える人はいません。ましてや、人を見下して自分を正しいと言える人も一人もいないのです。わたしたち人間にとって最も受け入れがたいことは、高いところにおられるはずの神様が最も謙遜で、へりくだった御方であるということではないでしょうか。イエス・キリストの謙遜は人間を招き寄せる謙遜です。それは、決して高ぶって人を遠ざけず、かえって、「疲れた者、重荷を負う者」が本当に安らぎを得ることのできる謙遜です。

 わたしたちが疲れまたさまざまな重荷を負うとき、しばしば、人間がお互いに高ぶり、そして何よりも神様を忘れてしまうことがあります。しかし、人間が人間らしくお互いを尊敬し合い、神様を覚える方法は、人間は神様に造られたものであり、イエス・キリストはへりくだって私たちと同じように人間の姿をお取りになったことを知ることです。ここに、十字架の死に至るまで、神様の独り子として従順に生きられたイエス・キリストに学ぶ道があります。

 イエス・キリストの十字架は、ただの人間が自らを神としたという口実をもって裁かれた結果でした。しかしながら、本当はこの御方が天地を造られた神様の独り子であったことが、かえって、この十字架の上で証明されたのでした。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)とのイエス・キリストの叫びは、わたしたち罪人の身代わりに神様の独り子がその身をささげられたことを証(あかし)しました。このように、神様がわたしたちに現してくださった謙遜は、愛する独り子が父なる神様を呼ぶほどに低く、真実なものです。この御方の清さは人を遠ざける清さではなく、かえって、人に本当の畏れと共に、心からの祈りをくださるものです。

 「神様」と、あなたもぜひ、イエス・キリストをわたしたちのためにお与えくださった神様を呼んでください。そこにも、あなたを愛してやまない神様が必ず共におられ、その清さにあずからせてくださいます。