2021年4月15日(木) 自己保身と王への忖度(エステル1:12b-22)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 権力者の権威は、それを支持する人たちによっていっそう確固としたものとなるのは世の習わしです。しかし、大多数の支持が得られないにもかかわらず、権力の座に着き続ける者がいることも歴史的な真実です。そうした専制君主や独裁者を温存し続ける仕組みもまた人間社会にはあります。

 一つは恐怖感という武器があります。恐怖心を植えつけることで、無理やり被支配層を従わせることができます。もう一つは、自分の周りにたくさんのイエスマンを置き、忖度させて、やりたいことを実現することです。もちろん、忖度する側近や部下にはそれなりの見返りが与えられます。

 きょう取り上げようとしている個所には、王への恐怖心と王の意向を忖度する側近たちによっておかしな勅令が発布される様子が描かれます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 エステル記 1章12節後半〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 王は大いに機嫌を損ね、怒りに燃え、経験を積んだ賢人たちに事を諮った。王の身辺の事柄はすべて、国の定めや裁きに通じている人々によって審議されることになっていた。王は、王の側近で、王国の最高の地位にある、ペルシアとメディアの7人の大臣カルシェナ、シェタル、アドマタ、タルシシュ、メレス、マルセナ、メムカンを呼び寄せた。「王妃ワシュティは、わたしが宦官によって伝えた命令に従わなかった。この場合、国の定めによれば王妃をどのように扱うべきか。」メムカンが王と大臣一同に向かって言った。「王妃ワシュティのなさったことは、ただ王のみならず、国中のすべての高官、すべての民にとって都合の悪いことです。この王妃の事件が知れ渡りますと、女たちは皆、『王妃ワシュティは王に召されても、お出ましにならなかった』と申して、夫を軽蔑の目で見るようになります。今日この日にも、ペルシアとメディアの高官夫人たちは、この王妃の事件を聞いて、王にお仕えするすべての高官に向かってそう申すにちがいありません。何とも侮辱的で腹立たしいことです。もしもお心に適いますなら、『ワシュティがクセルクセス王の前に出ることを禁ずる。王妃の位は、より優れた他の女に与える』との命令を王御自身お下しになり、これをペルシアとメディアの国法の中に書き込ませ、確定事項となさってはいかがでしょうか。お出しになった勅令がこの大国の津々浦々に聞こえますと、女たちは皆、身分のいかんにかかわらず夫を敬うようになりましょう。」王にも大臣たちにもこの発言は適切であると思われ、王はメムカンの言うとおりにした。王は支配下のすべての州に勅書を送ったが、それは州ごとにその州の文字で、また、民族ごとにその民族の言語で書かれていた。すべての男子が自分の家の主人となり、自分の母国語で話せるようにとの計らいからであった。

 前回は、宴会の席に召しだそうとしたクセルクセス王の命令を拒んだ王妃ワシュティの話を取り上げました。ワシュティが王の命令を拒んだ理由はどうあれ、王命に背くということは、王にとっては許しがたいことでした。このときの状況は詳しくは描かれていませんので、王が宴会の席で恥をかかされたのかどうかは定かではありません。しかし、王妃の登場を公言し、皆が王妃を期待して待っている中で、王妃が来なかったとなれば、王の立場はなかったことでしょう。

 きょうの個所は王命を拒絶されたクセルクセス王の怒りから始まります。もし、これがお酒の席でなければ、もう少し冷静でいられたかもしれません。来ることができない理由を落ち着いて考え巡らすこともできたでしょう。しかし、残念なことに、王は大いに機嫌を損ね、怒りに燃え上がります。

 怒りに燃え上がるとはまさに適切な表現です。炎はいきなり大きくはなりません。小さな火だったものが、だんだんと大きくなり、手の着けようがなくなります。思い返せば返すほど、王の心の中の怒りの炎はどんどん大きくなって、もはや家臣たちもそれをなだめるのは難しかったことでしょう。

 もっとも、怒りに燃えた王とはいえ、国の慣習には従う人でした。王の身辺の事柄はすべて、国の定めや裁きに通じている人々によって審議されることになっていたので、さっそく賢人たちを呼んで事を諮ります。最高の地位にある名だたる7人の大臣が召し集められました。

 ここで王の行動をいさめる者がいたらどうだっただろうかと思います。そもそもクセルクセス王が王妃を召しだそうとしたのは、前から計画されていたことではなさそうです。いわば、酒の席での思い付きにすぎません。同時に開催されていた別の宴会の主催者である王妃を、何の前触れもなく呼び出そうとしたのは、無理があるようにも思えます。その点をいさめる者はいなかったのでしょうか。

 その点について夫婦間で話し合えば良いものを、こうして国の大臣たちを呼び集めて審議させるのは、いかがなものかと進言する者はいなかったのでしょうか。もちろん、いなかったからこそ、この問題についての審議が行われたのですが、それにしても、どんな思いで大臣たちは審議に臨んだのか、その心中を知りたく思います。

 この審議は、形式的には賢人たちの知識と経験が十分に行かされるはずの審議です。しかし、怒りに燃えた王の手前、王の顔色を伺わないほど自由であったとは言い切れません。王を立てつつ、自分たちの立場をも守ろうとする大臣たちの思惑が見え隠れしています。言い換えれば、王妃ワシュティの立場など、最初から考慮する必要がない審議といってもよいかもしれません。王の立場が守られ、なおかつ自分たちの立場が安泰であるような、そういう大義を審議に集まった人たちは模索したことでしょう。

 開口一番、メムカンは言います。

 「王妃ワシュティのなさったことは、ただ王のみならず、国中のすべての高官、すべての民にとって都合の悪いことです。」

 この言葉のポイントは二つあるように思います。一つは王妃の行動を悪であると断言すること。もう一つは、その悪が普遍的な問題であると決めつけることです。

 「都合の悪いこと」というのは、翻訳の問題で、メムカンが言いたいことは、自分たちにとっての都合の良し悪しではなく、行動自体の良し悪しの問題です。しかも、それは王と王妃の間の問題ではなく、夫婦間の普遍的な問題として考えるべきだという提言です。

 こうして、王の怒りを正当化する一方で、同様な事例が自分の身に起こったときに自分を正当化する手だても押さえています。メムカンは王妃ワシュティを退位させることを進言し、そのことをもってすべての女性たちが夫に敬意を払うようにさせようとします。人格の崇高さによって尊敬の念を抱かせるのではなく、法律の定めによってそれを実現しようする愚かしさです。それをだれもおかしいと思わなかったのは、時代の制約もあったかもしれません。しかし、何よりも王への忖度と自己保身の思いが強かったからでしょう。

 メムカンが自分の意見の正しさを確信しているのであれば、「もしもお心に適いますなら」などとは言わなかったことでしょう。確かにそれは王の前での決まり文句であったかもしれません。しかし、そこには王の思いが自分の思いと違うときに、対立を避けて逃げ道を作っておく狡猾さも見え隠れしています。

 エステル記が描く世界は、こうした人間のどろどろとした世界です。しかし、その中で神の救いの計画が準備され、進められるところに、確かな希望があるのです。