2021年4月8日(木) 王命に逆らう王妃(エステル1:10-12a)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書にはお酒に関する記述があちこちに見られます。その聖書の世界で代表的なお酒といえば、ぶどう酒です。

 聖書には特別な場合を除いて、飲酒そのものを禁止する教えはありません。特別な場合を除いてというのは、例えば、ナジル人の請願を立てた場合は、「ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない」と規定されています(民数記6:3)。そういう特殊な場合を除けば、ぶどう酒は日常生活の中にも、また宗教的な儀式の中にも深く入り込んでいます。

 しかし、お酒がもたらす弊害について、聖書はあちこちで記しています。特にお酒を飲み過ぎたために起こる失態や酩酊に対して、聖書は厳しい態度をとっています。

 わたしが知る限り、人類最初の酔っ払いの記述は、ノアの箱舟で知られたノア自身の失態です。ノアは洪水後、ぶどう酒を飲んで酔っぱらい、天幕の中で裸になってしまいました(創世記9:21)。

 今日取り上げる個所にも、ぶどう酒を飲んで上機嫌になったペルシア王の話が出てきます。この酒宴での思慮を欠いた王の行動がなければ、『エステル記』の存在がなくなってしまいます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 エステル記 1章10節〜12節前半までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 7日目のことである。ぶどう酒で上機嫌になったクセルクセス王は、そば近く仕える宦官メフマン、ビゼタ、ハルボナ、ビグタ、アバグタ、ゼタル、カルカスの7人に命じて、冠を着けた王妃ワシュティを召し出そうとした。その美しさを高官および列席する民に見せようというのである。王妃は美しい人であった。ところが、王妃ワシュティは宦官の伝えた王の命令を拒み、来ようとしなかった。

 前回の学びでは、ペルシア王、クセルクセス一世が催した宴会の様子を見てきました。180日間にも及ぶ盛大な宴会とそれに続く7日間の宴会でした。それらは、クセルクセス王の支配がどれほどすごいものであるかを見せつけるには十分でした。

 そればかりか、後から持たれた7日間の宴会には、身分の上下を問わず人を招き、しかも、王室用の特別なぶどう酒を金の盃でふるまったというのですから、王がどれほど寛大な人であるのかを印象づけたことでしょう。そのうえ、酒を飲むことは強要しなかったというのですから、王国に暮らすそれぞれの民族の習慣や伝統を重んじる姿勢も、ペルシアの王には備わっていたということでしょう。

 その7日間に及ぶ宴会も最後の日となって、宴会もたけなわという時の出来事が、今日取り上げた個所の場面です。

 場面は、お酒に酔った王が上機嫌な様子であることから始まります。即位して3年にして、これだけ盛大な宴会を開催することができたのですから、お酒が入らなくても満足感で満たされたはずです。そこにお酒の勢いが加わったのですから、王の機嫌がますますよくなって行く様子は簡単に想像することができます。

 時代的には、これからギリシアに遠征し、ギリシアと一戦を交えようとするまさにその直前のことですから、王には高揚感もあったことでしょう。

 満足感と高揚感とお酒の力からくる上機嫌が重なったためか、余計なことを考えるというのは人間の弱さです。お酒の席だから、少しの余興や羽目を外すことは許されると考えるのは、人間にとっては身勝手な都合のよい判断です。

 王は側近の宦官に命じて王妃ワシュティを召しだそうとします。それも、ただ王妃の美しさを見せようとする、ただそれだけのためにです。自分の妻を列席の人々に紹介するというのではなく、その美しさを見せるその目的のためにです。

 美しいものを美しいと自慢することのどこが悪い、という意見もあるかもしれません。王の妃であれば、美しいのは当然だという考えもあるでしょう。しかし、容姿の美しさを見せるために呼び出すのは、お酒の入った状態でなければ、しなかったことでしょう。紹介とかお披露目とは明らかに違った目的のためにです。

 何よりも、呼び出された当人であるワシュティにとって、それは不本意なことでした。王の命令を拒んで行こうとはしませんでした。

 王妃ワシュティがなぜ王命を拒んだのか、その理由は記されてはいません。そのため、いろいろな推測がなされてきました。たとえば、「冠を着けた王妃」を「冠だけを着けさせ」、つまり裸で出てくるようにと命じたからだと解釈したり、あるいは、王妃はそのころちょうど子供を宿しており、その姿を人前にさらしたくなかったからだという解釈もあります。それぞれがもし本当の理由であるなら、確かに断るのも無理もありません。あるいは、お酒の席で容姿の美しさを自慢されるのは、王妃としての尊厳を損ねると考えたからだという解釈もあります。もちろん、その時王妃ワシュティは女性のために別の宴会を主催していたわけですから、単純にその場を離れるのは、失礼だと考えたのかもしれません。

 そもそも、王妃1人を召しだすために、7人の側近に命じるというのも、不自然な気がします。当時のペルシアの王宮での習慣がそうであったのかもしれませんが、普通は人の王妃を宴会の席に召しだすために7人の宦官を派遣したりはしないでしょう。そこには有無を言わせない王の強い意志があらわれています。逆に言えば、王妃が自分の願いを拒むであろうことを予見して、無理やりにでも連れてこさせようとする王の気持ちが見え隠れしています。それも、重要な事のためではなく、ただ酒の席の余興のためにです。王妃ワシュティでなくとも、気分を損ねるのも当然かもしれません。

 王妃の態度に王が機嫌を損ね、怒りを押さえることができなかったことはいうまでもありません。王の命令を拒んだ王妃ワシュティがその後どんな扱いをされるのかは、来週取り上げることにします。

 ただ、この出来事からわたしたちはどんなことを学ぶことができるのでしょうか。事の顛末をすべて知っている『エステル記』の読者にとっては、ここにすでに神の見えない御手の導きを感じ取ることができるかもしれません。実際、ワシュティが王の要望を拒絶しなければ、エステルの活躍のチャンスはなかったわけですし、プリムの祭りも存在しなかったことでしょう。そういう意味で、私たちの気が付かないところで、神は確実に働いておられるということは、『エステル記』の読者がいつも心してこの書物を読む着眼点であることは間違いありません。

 しかし、その場に居合わせた人たちにとっては、そこに神の御手を感じることはできなかったでしょう。見えるのは、王クセルクセスのまったく個人的な趣向とそれを拒む王妃ワシュティの信念を貫く果敢な態度だけです。今現実に目の前で起こっている出来事が、将来とどうつながるのかは、誰にも予想できないことです。しかし、だからこそ、信仰の目をもって出来事を洞察することは、どの時代の信仰者にとっても大切なことと言えるのです。信仰の目で現実の世界を見るときに、そこに違った景色を期待することができるようになるのです。


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