2019年10月10日(木) 奉仕者の資質(1テモテ3:8-13)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「執事」という言葉を聞いて、どんなイメージを描くでしょうか。もし教会に一度も行ったことのない人が、「わたしの教会には、執事が何人もいる」と聞かされれば、どんなに立派なお城のような教会かと勘違いをするかもしれません。おそらく「執事」という言葉を聞いてイメージするのは、立派なお屋敷で家のことを任された、いつも黒いスーツに蝶ネクタイをした、ちょっと白髪交じりの品のいい男性の姿です。ちょうど漫画『ちびまる子ちゃん』に出てくる花輪君のお家にいるヒデじいのような、そんなイメージです。

 では、「奉仕者」という言葉をきいたら、どんな人をイメージするでしょうか。お金や生活のためではなく、まったくの自発的な思いから、何かを手伝う人。社会貢献のためであったり、自己啓発のためであったり、ちょっと意識の高い人を想像するかもしれません。あるいは、本職の下でちょっとお手伝いをしている人、というイメージの場合もあるかもしれません。

 実は今日これから取り上げようとしている個所には、「奉仕者」という言葉が出てきますが、口語訳聖書や新改訳聖書では「執事」という訳語があてられていました。「奉仕者」と言うのと「執事」と言うのでは、受ける印象が全く違ってきます。

 ギリシア語の「ディアコノス」という言葉の本来の意味は、王に仕える僕や、食卓で給仕する者を指す言葉でした。教会内の役職を表す語として使われるときには、プロテスタント教会では「執事」、カトリック教会では「助祭」、正教会では「輔祭」と訳されてきました。新共同訳聖書が、あえてそれらの訳語を使わないのは、おそらくそれぞれの教会の伝統の中で育てられてきた用語が、それぞれ別の役割をさしているからでしょう。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 3章8節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。というのも、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです。

 前回の学びでは、教会で監督につく者の資質について取り上げました。きょうの個所では「奉仕者」の資質について記されています。

 冒頭でも触れましたが、ここで使われているギリシア語は「ディアコノス」という言葉で、長い教会の伝統の中で、「執事」と呼ばれたり、「助祭」と呼ばれたり、「輔祭」と呼ばれたりしています。それは、ただ訳語が違うというばかりではなく、それぞれの歴史の中で形成されてきた職務の内容も異なっています。

 実際のところ、きょうの個所では、ディアコノスになる者たちの資質については述べられますが、ディアコノスが教会の中でどういう働きをする人たちなのか、一言も触れられてはいません。この手紙の受取人にとって、奉仕者の職務の内容は、言うまでもなくよく知られていることでした。そして職務の内容を知っていることが前提で、この個所が書かれています。ここで問題なのは、どういう人物がこの働きにふさわしいかということです。

 ちなみにディアコノスという言葉自体は、新約聖書の中で29回出てきますが、ほとんどの用例では、それが教会の職務の名称であるのかはっきりしません。たとえば、パウロは自分を「新しい契約に仕えるディアコノス」と言ったり(2コリント3:6)「神に仕えるディアコノス」と言ったり(2コリント6:4)、あるいは単に「ディアコノス」(1コリント3:5)と呼んだりしています。それらは、教会での職務の名称というよりは、一般的な意味での「奉仕者」「仕える者」という意味でしょう。

 そういう意味では、ローマの信徒への手紙16章1節に登場するケンクレアイの教会の奉仕者フェベが、一般的な意味での奉仕者なのか、教会の役職をもった人物なのか、はっきりとはしません。

 前回も引用しましたがフィリピの信徒への手紙の冒頭では、フィリピの教会の信徒たちとは区別された「監督たち」が手紙の宛先人として挙げられ、それと並んで「奉仕者たち」についての言及があります。そういう意味では「監督」と「奉仕者」は教会の中で何らかの特別な働きを担う人たちであったのでしょう。

 きょうの個所でも「監督」に並んで「奉仕者」の資質が取り上げられます。

 前回学んだ監督の資質と、単語レベルでは細かな違いがあるとしても、それぞれの単語の違いが「監督」と「奉仕者」との大きな資質の違いとしてあらわれるようなものではありません。要は、両者ともに品格があって、非難されないような人物です。そして、その具体的な内容が、二枚舌を使ったり、大酒を飲んだり、二人以上の妻を持ったりしない人です。ある意味、常識的な判断が求められているといってもいいかもしれません。いったい誰が好んで品格のない人を選んだり、悪い噂が立っている人をわざわざ奉仕者に選ぶでしょうか。そのことを敢て記す意味は何でしょうか。

 一つには、これらの人たちを立てるときに、その判断を誤らせることが起こりやすいからです。たとえば、その町の有力者であるという理由で、教会の役員になってもらいたいという誘惑はあるかもしれません。自分の教会の役員たちが、医者や弁護士、大学教授、政治家によって構成されているといえば、誇らしげであるかもしれません。またそういう職業の人たちを選びたくなる誘惑も起きやすいでしょう。しかし、職業と人間の品格とは必ずしも一対一の関係があるわけではありません。ある職業のゆえに教会の中でより良く仕えることができるとは言い切れないからです。そうであるからこそ、その人の信仰者としての品位をよく吟味することが求められています。

 また、この手紙が書かれた時代のことを考えると、もはやキリスト教会は社会にとって無視できるような小さな存在ではなくなりつつありました。信仰のゆえに社会からの圧迫も見え始めてきた時代です。ユダヤ教との区別も認識されるようになり、自分たちを弁明しなければならない機会も増えてきたであろうと想像されます。

 そういう状況の中では、敵対者から簡単に非難されるような人物が、教会の働きの中心を担うことは、相手に教会を攻撃する機会を与えるようなものです。そういう警戒もここにはあっただろうと思います。

 ところで、「監督」と「奉仕者」の基本的な資質はほとんど変わりないと言いましたが、「奉仕者」の資質には「良く教えることができる」という項目がありません。この点は「監督」と「奉仕者」の働きの大きな違いであると考えられます。教えるということよりも、その名称の通り、様々な面で仕えていく資質がより大きく求められているということでしょう。