2018年11月8日(木) 神の国と幼子(マルコ10:13-16)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 子供を慈しんだ歌として有名な歌に山上憶良の歌があります。

 「銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」

 金銀財宝、どんなすぐれた宝も子供には勝らないという歌ですが、古今東西、子供を慈しむ気持ちはどこへ行っても同じように思います。しかしまた、現実の世界では、子供の権利と言うことを改めて主張しなければならないほど、子供が虐待されたり、無視されたり、とかく子供が踏みにじられているのも本当です。

 小さくか弱い者に対して、人は慈しむ気持ちを持つ反面、小さくて取るに足らない者を省みない、まったく正反対の態度をとってしまうという、自己矛盾した存在のようにも思えてしまいます。

 きょうの聖書の個所はそうした小さな子供を巡る一場面から始まります。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 10章13節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 きょうの場面は、自分たちの子供を祝福していただこうと連れてきた親たちとそれを阻もうとする弟子たちとのやり取りから始まります。

 弟子たちは子供を連れてくる人たちを叱ったとあります。その叱った理由は明らかにはされてはいませんが、結果として子供がイエス・キリストに近づく機会を奪ったと言うことは明らかです。子供にはまだ大きくなってからでもキリストに出会うチャンスがある、そういう思いで弟子たちは彼らが来るのを妨げたのかもしれません。あるいは、多忙を極めるイエス・キリストをこれ以上煩わすのは申し訳ないと思ったのかもしれません。あるいはただ単に、子供の出番ではないと、弟子たちがそう思っただけなのかもしれません。確かに、その当時の社会的な通念からいえば、女子供を退けて、大人の男性を優先させたとしても、誰もとがめたりはしないでしょう。

 しかし、この弟子たちの態度に対して、イエス・キリストは憤ったとあります。キリストがこのような憤りをあらわにされるのは、そうそうあることではありません。イエス・キリストが不快感をあらわにされるのには、それなりの理由がありました。

 まず第一に、これまでキリストと行動を共にしていた弟子たちであるならば、当然、キリストが子供たちに対してどんな態度をもっていたのか、知っていなければならないはずです。

 イエス・キリストは会堂長ヤイロの娘を生き返らせました。また、つい先ごろも、汚れた霊に取りつかれた少年を癒してあげました。これだけを見ても、子供がイエス・キリストの救いの業に当然与るべきであることは明らかです。

 それにもまして、第二に、既にイエス・キリストは弟子たちに対して、こんなことをおっしゃっているのです。

 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(9:37)

 小さな子供を受け入れないことはイエス・キリストそのお方を受け入れないのと同じなのです。

 もし、弟子たちがこれまでのイエスの態度や言葉を注意深く観察していたならば、弟子たちは、決してそんな態度をとりはしなかったでしょう。イエスが弟子たちに対して憤りを持つのは当然です。

 イエス・キリストは弟子たちを前にして、こうおっしゃいました。

 「神の国はこのような者たちのものである」

 このような者たちというのは、いったい小さな子供のどんなことを指して「このような」とおっしゃったのでしょうか。

 「このような」とは、まさに弟子たちが幼子を扱うときに示した態度にあらわれています。弟子たちは子供を二の次のこととしか思っていませんでした。少なくとも、弟子たちの取った態度は結果として、子供を小さい者、取るに足らない者にしてしまったのです。

 既にイエス・キリストは小さな者たちに関して「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(9:42)とおっしゃっています。しかし、弟子たちは残念ながらこの小さな者たちへの配慮に欠けていたのです。

 このような者たちとは、まさに、人の目からは価値なき者、二の次のものと思われている、そういう者たちなのです。

 イエス・キリストはまた別の個所で「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:31)とおっしゃっています。

 神の国とはこのような小さな者、か弱い者、人の目からは忘れ去られてしまうような者たちのものなのです。そのような者たちのために、イエス・キリストは十字架にお掛かりになりました。

 イエス・キリストは言葉を続けておっしゃいます。

 「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」

 イエス・キリストは神の国が小さき者たちのものであるというに留まらず、弟子たちに子供のようになることを求めていらっしゃいます。

 では、子供のように神の国を受け入れると言うのは、一体子供のどういう点のことを言っているのでしょうか。

 イエス・キリストが神のことを「アッバ、父よ」とお呼びになっていたことは有名です。そして、弟子たちにもそのように神を父と呼ぶことを教えていらっしゃいました。このような呼びかけには、父親に対する絶対の信頼と言うことが、その根底に流れています。父を信頼する子供のように神の国を受け入れる者が、その者こそが神の国に入る資格を与えられているのです。


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