2018年3月8日(木) 聞く耳のあるものは聞きなさい(マルコ4:21-25)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストの譬え話は果たしてやさしいのか、それとも難しいのか、この質問に答えるのはそう簡単ではありません。普通、譬えで話を語るのは、物事をわかりやすく伝えるためです。確かに、イエス・キリストの譬え話には、物事をわかりやすく伝えるために語られたものもあります。そういう譬え話に限って言えば、イエス・キリストの譬え話はやさしいと言うことができるでしょう。

 しかし、先週取り上げた譬え話のように、言葉やストーリーは簡単でも、いったい何が言いたいのか、注意深く聞かないとわかりにくいものもあります。イエス・キリストご自身、自分が譬えで語るのは、「『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」とおっしゃっています。この意味からすれば、キリストが語られた譬え話の奥義を知ることは、誰にとっても容易であるとは言い切れない面もあります。この場合の「譬」という言葉は、むしろ、「謎」と翻訳した方がよいかもしれません。日本語の「譬」に相当するヘブライ語は「マーシャール」という単語ですが、必ずしも「譬」という意味ばかりではありません。たとえば、エゼキエル書17章2節では、「なぞかけ」と同義語のように使われています。そういう意味からすると、ヘブライ語的な意味での譬は、謎のようにわかりにくくても当然なのかもしれません。

 また、イエス・キリストご自身を神の国の譬であると考えるとすると、マルコ福音書の3章で見てきたように、キリストの働きを悪霊の頭の仕業だと見間違えるユダヤ教の指導者たちは、まさに「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」ような状態でした。

 しかし、それでも、、いえ、それだからこそ、譬え話で語るイエス・キリストの言葉に耳を傾ける意義の大きさに注意をしなければなりません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 4章21節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 また、イエス・キリストは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」
 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

 今日取り上げる個所は、この4章に収められた他の三つの神の国についての譬え話とは趣旨が違っています。ここで語られる譬え話は、神の国についての譬え話そのものではなく、イエス・キリストの譬え話をどう聞くのかということにかかわっています。

 イエス・キリストがこのことをお語りになるのは、今までこの福音書に記されたイエス・キリストに対する人々の反応がその背景にあります。

 人々は、罪を赦すイエス・キリストに対して、神を冒涜する者と言うレッテルを貼りました。また罪人を招くイエス・キリストに対しては罪人の仲間であると見なします。さらに安息日にも休まず神の国の宣教に携わるイエス・キリストを安息日の掟に違反する者と決め付け、挙句の果ては気が変になっているとか、悪霊の頭の力で様々な奇跡を行っていると受け取る始末です。そういう現実を背景にイエス・キリストは神の国の譬え話を語り、この譬えにどう耳を傾けるのか、お語りになっています。

 まずはじめに、きょうの個所が、誰に対して語られた言葉なのか、という問題があります。一部の弟子たちに対してだけ語られた言葉なのか、それとも、群衆を前にして語られた言葉なのか。前回の続きとして読むと、イエス・キリストが一人になったときに弟子たちが譬え話の意味を尋ねたその場面の続きとして読めるかもしれません。そうすると、今日の個所は、譬えの意味が解き明かされた弟子たちに対する教えと言うことになります。

 しかし、注意して読むと、4章の36節ではイエス・キリストは船に乗ったまま群衆を後に残してその場を去っていったのですから、一連の教えはガリラヤ湖の岸辺に集まった群衆たちと考えるのがよいと思います。少なくともマルコはそう理解したと思われます。つまり、一部の弟子たちに譬えの意味を解き明かした場面は、実際には時間的にはもっと後のことだったのですが、もとの譬え話とその解き明かしを一貫して記す必要から、一連の教えに割り込むような形で記されたのでしょう。

 前回学んだ譬え話を結ぶ言葉…「聞く耳のある者は聞きなさい」と言う民衆に語りかける言葉が、きょうの個所にも繰り返されます。そのことから考えても、ここでイエス・キリストが語りかけていらっしゃる対象の人々は限られた弟子たちではなく、種まく譬え話を聞かされた聴衆と同じ人たちが、ここでも聴衆になっていると考えることができます。

 さて、現実にはイエス・キリストを理解しない人々の数は多く、イエス・キリストご自身のことも、またその口から出る教えも、正しく受け留められることは少なかったわけですが、それは、イエス・キリストがそうなることを願っていたからではありません。

 イエス・キリストはともし火の譬えを語ります。人がともし火をともすのは、当然、明かりを得るためです。それを升で覆ったり、寝台の下に置いたのでは意味がありません。

 ところで、この言葉を語るイエス・キリストは、ちょっと面白い表現を使っています。日本語の訳では「ともし火を持って来る」と言われていますが、イエス・キリストがおっしゃったのは「ともし火が来る」という言い方です。もちろん、ともし火が自分で歩いてくるわけではないので、誰かが持って来るという意味でなければなりません。しかし、このともし火が、イエス・キリストご自身をたとえているのだとすれば、ともし火がやって来るという言い方には、意味があります。神の国の到来そのものをご自身の存在をもって表している光であるイエス・キリストを、人々は覆い隠そうとしてしまっているのです。しかし、イエス・キリストが来られたのはけっして覆い隠されるためではありません。たとえ、今、人々の心に覆い隠されていたとしても、あらわになるときが来るとイエス・キリストは教えます。何故なら、ともし火が覆い隠されるためにあるのではないように、イエス・キリストがこの世に来られたのも、覆い隠されることが目的ではないからです。

 だからこそ、聞く耳のある者は聞くようにとイエス・キリストは注意を喚起します。

 そこでイエス・キリストはさらにもう一つの譬え、秤の譬えを語ります。何を聞いているかに注意しなさいとイエス・キリストは教えます。丁度穀物を秤で量りとって自分のものとするように、聞く者が持っている信仰の秤が小さければ、ものにすることができる理解も小さなものになってしまいます。頑なな心でキリストの教えに耳を傾けるなら、心に届くこともできません。

 神の国の恵みを豊かにいただくことができるように、心をかたくなにするのではなく、私たちの信仰を豊かにしていただくように、祈り求めましょう。今は少ししかわからないことも、さらに知ることができるようになります。