ただ一つの慰め『ハイデルベルク信仰問答』の学び 問89−90

ハイデルベルクの街

吉田 隆(仙台教会牧師)


真の悔い改めである回心には「古い人の死滅」と「新しい人の復活」が必要です。これらはそれぞれ具体的に何を意味しているのでしょう。御一緒に学びましょう。

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 私たち罪人が再び神の祝 私たち罪人が再び神の祝福の道を生きるためには「まことの悔い改めまたは回心」が必要ですが、それには「古い人の死滅」と「新しい人の復活」の二つの側面があることを学びました。今回は各々について、もう少し詳しく学んでみましょう。

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 私たちの内には「古い人」があると聖書は言います。この世の価値観・自分の欲望にとらわれた罪人としての自分です。神の御旨を行うことができないばかりか「神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている」(問5)自分のことです。他者の幸福を犠牲にしても自分さえ幸福であればよいという自己中心的な人間の心が、神の御子をさえ十字架に付けたのです。

 しかし、それは結局のところ自分自身を蝕む死に至る病のようなものです。私たちが生きるためには、まず、その病根である古い人を「死滅」させなければなりません。それは何よりも「心から罪を嘆き、またそれをますます憎み避けるようになる」ことです。罪の味はしばしば忘れ難く、甘い香りを放って私たちを誘い続けます。しかし、もうそういう人生は懲り懲りだと背を向けて離れようとすること、それでもなお舞い戻ろうとする罪深い我が身を“心を引き裂いて”嘆き悲しむことです(ヨエル2:13、詩51:19)。そのような「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」るでしょう(2コリント7:10)。

 『信仰問答』は「死滅(absterbung)」という興味深い言葉を使っています。徐々に枯れて死んで行くという表現です。このような悔い改めを通して、徐々に「古い人」は死んで行くのですが、真の悔い改めは罪を嘆くだけではなく「新しい人の復活」を伴います。それは「キリストによって心から神を喜び、また神の御旨に従ったあらゆる善い行いに心を打ち込んで生きる」自分に生まれ変わって行くことです。

 罪深い人間には、自分自身で方向転換をして生まれ変わるということができません。人間をもし生まれ変わらせることができるとすれば、それは人間を造られた神のみです。罪に汚れた人間を再び栄光ある姿へと造り変える、言わば再創造の御業が「キリストによって」もたらされます。その変化はまず、キリストの死と復活によって与えられる大いなる救いの喜びに表れます。

      キリストの命がすでにわたしの中で鼓動し始めています。
              終わりの日の完成を目指して。

 「古い人の死滅」が悲しみだとすれば、「新しい人の復活」は喜びがその原動力となります(詩51:10,14)。神を憎む方へと心が傾いていたわたしが、神を喜ぶ者となるのです。自分自身の力で生きてきたと思っているわたしという存在が、実は神の内に生きていたのだということに気づく。そのことに無上の喜びを感じるようになる。そして、ちょうど子どもの喜びが親を喜ばせることであるように、神がお喜びになるあらゆる善い行いに心を打ち込んで生きるようになる(問1参照)。それこそが全く新しい人生の方向転換であり「新しい人の復活」なのです。

 『ルカによる福音書』の“放蕩息子のたとえ”(15:11-24)は、人間の回心を見事に表現しています。自分勝手に父の家を飛び出して欲望のままに生きて身を持ち崩した息子は、言わば人生の死を経験します。
 しかし、我に返った彼は、そのどん底から父の家に帰ろうと立ち上がって歩み出すのです(20節)。それが彼の「復活」です。死んでいたのに生き返ったと、父親が言うとおりです(24節)。

 まことの悔い改めまたは回心は、しかし、一朝一夕に為されるわけではありません。先ほどの「死滅」という言葉に表現されたように、徐々に進行するものです。立ち上がったと思ったら倒れ、また立ち上がる。まるで赤ん坊のように遅々たる歩みです。宗教改革者のマルティン・ルターが有名な『95カ条の提題』の冒頭で言ったように、キリスト者の全生涯が悔い改めの生涯なのです。

 とは言え、そのような歩みの中にキリストの十字架の力は現れ(問45)、神の祝福は溢れ出ます。「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ2:20)とのパウロの言葉通り、キリストの命がすでにわたしの中で鼓動し始めています。終わりの日の完成を目指して。

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