僕になった神―低さの極みにまで | フィリピの信徒への手紙 2章

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フィリピの信徒への手紙 2章

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 フィリピの信徒への手紙 2章6節~7節

僕になった神―低さの極みにまで

キリストは神の御子、つまり神ご自身です。しかし、人間になられました。それも、かりそめにではなく、完全に、永遠に(神でありつつ)人間となられたのです。しかも、主人のために何もかもを犠牲にして働く僕として来られました。人に仕える神。謙遜の極みです!

足の速い人は遅い人に合わせることができますが、その逆はできません。人間が神になることは不可能ですが、真の神は人間になることができます。世の神々はかりそめに、また人を支配する―人に仕えられる――ために人になりますが、人に仕えるために人になることはありません。

キリストは、当時の最高刑、特にユダヤ社会での神の最大の呪いである十字架刑を受けられました。私たち罪人の代表、また身代わりとして神の裁きを受けるためです。神の御子がここまで謙遜になられたことが、私たちを救ったのです。その御子のお姿を、パウロはフィリピ教会に互いの謙遜を勧めるための最大の根拠・実例としました。私たちも、キリストの謙遜のお姿に倣いましょう。キリストをほめたたえることによって、謙遜な生き方を実践しましょう。

市川 康則(千城台教会)